遥かなる わがヨークシャー (Faraway My Yorkshire)

コラム2 マナー・ハウスの幽霊話や言い伝え
(Column2: Tales of Ghost and Legends of Manor Houses)

 マナー・ハウスには、幽霊話や不思議な話がつきものである。イースト・リドゥルスデン・ホール(水彩画)33)やボーリング・ホール(水彩画34)、ニューバラ・プライアリー(水彩画73)のほかにも、そのような話を伝えるところがたくさんある。
 ヨークの東、北海に近いところに、バートン・アグネス・ホールがある。ジャコビアン様式で赤レンガ造りの美しい館であるが、その種のエピソードを伝えるマナー・ハウスとしては、イギリスでももっとも有名なところである。
 このバートン・アグネス・ホールは、17世紀の初めごろに、サー・ヘンリー・グリフィスという人物によって建てられたものであるが、「この館の壁のなかには、髑髏(されこうべ)が埋め込まれている」と伝えられているところである。その話とは、次のようなものである。
 サー・ヘンリーには3人の娘がいた。末娘のアンは、父が建てたこの館をとても気に入っていた。
 ある日、アンは近くのハ―パムという村へ出かけて行ったことがあった。ところが、途中で追いはぎにあい、襲われて瀕死の重傷を負ってしまった。そして数日間、苦しんだ末に、とうとう死んでしまった。
 アンは死ぬ間際まで、「私が死んだら、頭部は家のなかに置いてほしい」と、くりかえし言っていた。しかし家族は、「馬鹿なことを言うものではない」と、彼女の言葉を本気にはしなかった。そして彼女が亡くなると、グリフィス家の仕来りにしたがって墓所に埋葬するのだった。
 それから数日してからのことである。館のなかで、おかしなことが起こるようになった。だれもいない部屋や廊下で不気味な音がしたり、部屋の扉がかっに開いたり閉ったりするようになったのである。それでも家の人や使用人たちは、「気のせいだろうと」あまり気にかけなかった。
 ところが、不気味な音はしだいに大きくなり、やがて館中に恐ろしげに鳴りひびくようになった。そしてとうとう、女の嘆き悲しみ、泣き叫ぶ声が聞かれるようになったのである。村人のなかには、「館のまわりをさまよう女の幽霊を見た」という者まで現われるようになった。
 そこでアンの姉たちは、ようやく彼女が死ぬ間際まで言っていたことを思い出した。そして墓所のアンの棺を開けてみると、遺体の頭部はすっかりきれいな髑髏になっていたのである。
 そこで姉たちは、アンの髑髏を館のなかに安置することにした。するとそれ以来、館のなかで不気味な音や女の泣き叫ぶ声は聞かれなくなった。
 アンの髑髏が館のなかに置かれているかぎり、なにごとも起こらなかった。しかしなにかの都合で館の外に持ち出そうとすると、髑髏は悲鳴をあげて泣き叫ぶのだった。
 そこで1900年、アンの髑髏は館のある部屋(大広間とも言われている)の壁のなかに埋め込まれ、二度と動かされることがないようになった。こうしてアンは、彼女が愛してやまなかった館のなかに、永遠に住みつづけるようになったのである。
 バートン・アグネス・ホールにはそのうちに行ってみたいと思っていたが、住んでいたところから離れていたこともあって、ついにその機会を逃してしまった。

 マンチェスターの北西約20kmのところ、ボルトンという町の郊外に、スミスィルズ・ホールという大きなマナー・ハウスがある。そこには、「ジョージ・マーシュの足跡」というものが残されている。礼拝堂の入口の石の床にある、足跡のような形をしたへこみのことである。
 それは、狂信的なカトリックだった女王メアリー1世(在位1553-58)がプロテスタントを異端とし、弾圧の嵐が吹き荒れていた時代の1555年のことである。この地区の行政官だったロバート・バートンが、ジョージ・マーシュという男を異端信仰の疑いで礼拝堂に呼びだし、尋問したことがあった。すると、マーシュはプロテスタントであると臆することもなく明言し、礼拝堂から出ていったという。
 その後、彼は逮捕され、異端信仰の罪で火あぶりの刑に処せられてしまった。
 それからのことである。礼拝堂の入口の床に足の形をしたへこみが現われたという。そしてそのへこみは、信仰をつらぬいて殉教していったジョージ・マーシュの強い信仰心が、奇跡となって現われたのだと伝えられるようになったという。


 リーズから南東に約65km行ったところ、リンカンシャーのゲインズバラの町なかに、ゲインズバラ・オールド・ホールというマナー・ハウスがある。このマナー・ハウスには、「灰色の貴婦人」と呼ばれる女性の幽霊がでるという。
 ばら戦争の時代のことである。このゲインズバラ・オールド・ホールは、この地方のヨーク家側についた騎士たちの拠点になっていた。1460年には、ここから北西に約60km行ったところのウェイクフィールドで、また翌1461年には、北北西にやはり60kmほど行ったところのタウトンではげしい戦いがあった。騎士たちは甲冑を身につけ馬を駆って勇ましく合戦に出かけていった。しかし、そのまま帰らぬ者もいた。
 灰色の貴婦人は、その帰らぬ騎士を待ちつづけ、いまも館のなかをさまよっているのだという。


 ヨークシャーの西どなりにあるランカシャーのコアリーという町には、アストリ―・ホールというマナー・ハウスがある。ここには、幽霊話や不思議な話、言い伝えがたくさんある。
 一つは「シャヴェルボードの幽霊」である。
 シャヴェルボードとは、床の上に置いた円盤を棒の先で突いてすべらせ、床の上の点数を書いた枠のなかに入れて得点を競うゲームである。
 ある日のことである。館のロング・ギャラリー(広廊下)で、あるひとりの女性へ求婚する権利をかけて、数人の男たちがこのゲームに興じていた。すると、どこからともなく男の幽霊が現われ、「ゲームに勝ったからといって、彼女と結婚できるとはかぎらんぞ!」と言って消えていった。
 男たちがわれに返ってみると、彼らが争って獲得しようとしていた当の女性が、いつの間にかいなくなっていた。
 じつは、彼女にはすでに結婚の約束をした恋人がいて、ゲームをしていた男たちのだれとも結婚する気などなかった。「シャヴェルボードの幽霊」はそれを知っていて、愚かな男たちをからかったというのである。
 アストリ―・ホールには、サー・ジョン・チャーノックという実在した人物の幽霊話も伝えられている。彼は1586年の、エリザベス1世を暗殺して体制を転覆させようとした、いわゆるバビントン事件にかかわったとして、反逆罪で処刑された人物である。
 彼の幽霊は、彼が子供のころによく遊んだ回廊に現われるという。
 ここには、灰色のや青緑色の衣装をつけた貴婦人の幽霊もよくでるという。また子供たちへの戒めとして、敷地内の池でおぼれ死んだ少女の幽霊の話や、館のなかでかくれんぼをしていて、チェストのなかに隠れたところ、そのまま出られなくなって死んでしまった少女の話なども伝えられている。

 アストリ―・ホールには、オリヴァー・クロムウェルについての話も伝わっている。
 ピューリタン革命時代の1648年8月17日に、ここから北へ18kmほど行ったところで「プレストンの戦い」があった。この戦いでクロムウェルのひきいる議会軍は、ハミルトン公ジェイムズ・ハミルトンのひきいるスコットランド軍に国王軍の残党がくわわった連合軍を、たったの3時間の戦いで打ち破ってしまった。そしてハミルトン公が南へと敗走すると、クロムウェルはそれを追跡した。
 アストリ―・ホールに伝わる話とは、「クロムウェルはその追跡の途中、18日の夜にここに泊まった」というものである。ホールには、彼が使ったという四柱式寝台と、彼が履いていたという長靴が残されている。
 ところが前後関係から考察すると、彼はどうもここには泊まらなかったようである。彼は追跡の途中でひどい悪天候にあい、雨宿りのために一時、立ち寄っただけだった。ところが館の主は、クロムウェルがてっきり泊まってゆくものと思い、ベッドを用意していた。しかしクロムウェルは、長靴を換えただけで、天候が回復するとすぐに出発してしまったらしいのである。
 たしかに、鉄のような固い意思をもったクロムウェルが、敵将を追跡しているさなかに、ベッドで一晩ゆっくりと眠るなど、考えられないことである。


The strange stories or ghostly legends have been handed down at manor houses quite often. They always stimulated my curiosity indeed.
There are many stories of walled up skulls in houses in England. The story of Anne's skull at Burton Agnes Hall in Yorkshire (now Humberside) is the best known in England, I believe.
Anne, the yougest sister of three sisters of Sir Henry Griffith who built this elegant Jacobean style manor house in the 17th century, loved the house very much.
When she went to Hurpham, a village one and a half miles to the southwest of from the house, she was attacked by footpads near the village and got wounded mortally. Lying in her dying bed, she asked her family repeatedly to keep her head in the house after her death. But her family did not take her request seriously.
When Anne died, she was buried in the vault of the Griffiths. But not so many days after the furneral, strange things began to happen in the house; scary frightening noises were heard, doors of the rooms opened and shut suddenly even though there was no one. At last the screaming of a woman was heard.
Then her sisters remembered Anne's request. Opening Anne's coffin, they found Anne's head turned to a clean skull already. Removing the skull, they kept it in the house.
Since then nothing strsnge happened as far as the skull was kept in the house. But when it was moved out from the house, the skull screamed and cried loudly and other ghostly manifestations returned.
Therefore in 1900 the family decided to wall the skull up in one room of the house. Finally Anne could live forever in the house she loved so much. It is said her skull might be walled up in the Great Hall.
I wanted to visit Burton Agnes Hall once, but it was located far from where I stated, I missed the chance.

At Astley Hall, Chorley, Lancashire, many strange stories have been come down.
One is the story of "the Shovel-Board Ghost", a mysterious ghost. It has been said that when gentlmen were playing the game for a lady's hand in the long gallery, the ghost appeared and warned them that the winner of the game did not always gain.
And when they came to themselves, the lady whom they concerned had already disappeared during the game.
The lady had a lover and had no intention of marrying anyone of them. The ghost made fun of the silly men.
The ghost story of John Charnock was also handed down at Astley Hall. He was executed for his part in the Babington Plot in 1586. His ghost is said to still walk around the corridors of Astley, where he spent his childhood days.
Astley Hall has a story about Oliver Cromwell, too. It has been said that he rested at Astley Hall on the 18th of August in 1648 on the way to pursuing James Hamilton, Duke of Hamilton who was defeated by the parliamentary army at the Battle of Preston the day before.
At the hall, a pair of boots which Cromwell wore and the fourposter which was said to have used by him were preserved. But there is no documentary evidence saying the legend is true.
It can be supposed that Cromwell might have rested there for a short while because of the bad weather. He just got new boots.
I do not think a man of such iron will would have stayed in a comfortable bed at night on the way to pursuing the general of his enemy, either.


*バビントン事件 (Babington Plot)  1586年7月に発覚した、エリザベス1世を暗殺して国教会体制を転覆させようとした事件。首謀者は24、5歳だったカトリック教徒のサー・アンソニー・バビントンで、彼には6人の仲間がいた。バビントンの背後には、スペインに通じていたカトリックの司祭ジョン・バーナードがいた。彼らの計画は、エリザベス1世を暗殺し、同時に国内のカトリック勢力が反乱を起こし、それを海上で待機していたスペイン軍がイングランドに侵攻して支援する――というもの。そして、イングランドに囚われていたスコットランド女王メアリーを救出し、イングランド女王に即位させ、イングランドをカトリックの国にもどそうとしていた。バビントンとメアリーは暗号で手紙を書き、ギルバート・ギフォードという男を通し、ビール樽に隠して手紙のやり取りをしていた。しかし、ギフォードはエリザベス1世の秘密警護隊長のサー・フランシス・ウォルシンガムの二重スパイで、手紙はウォルシンガムに渡っていた。そして彼のもとで写しがとられ、暗号も解読されて計画は筒抜けになっていた。バビントン他6人は8月に逮捕され、9月に反逆罪で処刑された。メアリーも直筆の手紙が決定的な証拠となって裁判で有罪となり、1587年2月8日に、幽閉先のフォザリンゲイ城で斬首刑になった。


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