遥かなる わがヨークシャー (Faraway My Yorkshire)

古都ヨーク (York)

21 クリフォーズ塔 (Clifford's Tower)

 ウィリアム1世が1067年にウーズ川の両岸に築いた二つの城は、「土塁と外庭の城」という、ノルマン式のものであった。土を盛ってつくった土塁の上に、キープという、本丸や天守閣に相当する、四角い塔のような木造の建物を建てた城である。
 ウーズ川の東岸に建てられた城の名残が、いま、クリフォーズ塔として残っている。
 当初ここに建てられた木造の城は、1190年に起きた反ユダヤ暴動のときに、暴徒に追われてここに逃げ込んできた150名のユダヤ人とともに焼失した。
 13世紀、ヘンリー3世(在位1216-72)によってこの一帯に、巨大なヨーク城が築かれた。そして土塁の上に、そのキープとして石造りの塔が再建された。これが、現在のクリフォーズ塔である。
 この塔がこう呼ばれるようになったのは、1596年からのことである。1326年に、2代クリフォード卿ロジャーという人物が、ここで処刑されたことに由来している。なぜ1596年からこう呼ばれるようになったのかは、よくわからない。
 クリフォーズ塔は、平面図にして見ると、ケトゥラフォイルという、四葉のクローバーのような形をしている。キープの形としては、非常にめずらしいものとされている。
 ピューリタン革命の時代の1644年に、国王軍がたてこもったヨークは、議会軍に包囲されてはげしい砲撃をうけた。いわゆる「ヨーク包囲戦」である。このときクリフォーズ塔も砲撃をうけ、一部が破壊されたが、革命後には修復されていた。
 ところが、1684年に塔内で爆発事故があり、屋根が崩れ落ちてしまった。それからは、もはや城としては使われなくなり、廃墟になった。19世紀には、一時、監獄として使われたこともあったという。
 かつてこの一帯は巨大なヨーク城の中にあり、周囲を強固な城壁がとりかくんでいた。しかし19世紀のなかごろに、街の発展の障害になるということで、城壁のほとんどがとり壊されてしまった。そしてヨーク城の名残としては、クリフォーズ塔だけが残っているのである。
 1699年にF.プレイスという画家によって描かれた、ヨーク城の水彩画がある。この絵を見ると、クリフォーズ塔はまだ城壁や城のほかの建物でかこまれており、ヨーク城が、巨大で難攻不落の城であったことが想像できる。
 ウーズ川の西岸にあってクリフォーズ塔と対になっていたもう一つの城は、土塁だけが残っている。その土塁は、ベイル・ヒルと呼ばれている。


The two castles which William I built on the each side of the River Ouse in 1067 were the Norman castles, called "motte-and- baily castles". The castles were ones with a wooden keep on a motte, an artificial mound.
The keep of the castle built on the east bank remains as Clifford's Tower. But the original wooden keep was destroyed by fire in 1190 during the anti-Jewsh riots. It is said that 150 Jews who sought shelter within the keep to escape from a mob died when it was burned down. The present stone tower was built in the 13th century to replace it as the keep of the Castle of York.
The name derives from the name of Roger, 2nd Lord of Clifford of Skipton, a member of the powerful Clifford family. He was executed possibly by hanging here in 1326, because he took part in the rebellion, which was raised by Thomas, Lord of Lancaster in 1321 against Edward II. The rebels were defeated at the Battle of Boroughbridge on the 16th March in 1322 and two Lords were captured. It is said the tower's name has been applied only since 1596, but I don't know the reason why.
Clifford's Tower has a quatrefoil plan, a very unique shape even in Europe.
In 1644 during the Siege of York, Clifford's Tower was damaged. It was restored after the Civil War. But in 1684 there was an explosion inside the tower. The roof was destroyed and the tower was ruined.
In the watercolour painted by F. Place in 1699, Clifford's Tower was still surrounded by the walls and the other buildings of the castle. I can see that the Castle of York was a large and impregnable fortress.
On the west side of the river, the mound called Bail Hill is there, the only remains of another castle.


*土塁と外庭の城 (motte-and-bailey castle)  土を盛った土塁(motte)と、その下の外庭(bailey)からなるノルマン式の城。土塁の上には、2層から3層構造の木造の四角い塔キープ(keep)が建てられた。キープと外庭、それらをつなぐ階段のまわりには、先端を尖らせた丸太を連ねた防御柵(palisade)がめぐらされ、さらにその外側には壕(ditch)が掘られていた。短期間で築城できたのが特徴。ウィリアム1世は、征服と同時にサクソン人を使役して城を築き、支配地を広げていった。

*反ユダヤ暴動 (the anti-Jewish riots)  1189年のリチャード1世の戴冠式のあとにあった小さな事件をきっかけに反ユダヤ暴動が起き、翌1190年にはイングランド中に広がっていった。ヨークであった暴動はそのなかでも最大規模のもの。そして、暴徒から逃れてヨーク城に逃げ込んだユダヤ人150名が、暴徒に包囲されて逃げ場を失い、城に火を放って自ら命を絶ったとされる。このとき、ヨーク城の長官はユダヤ人を城にかくまったのだとされるが、逆にクリフォーズ塔に招き入れて暴徒に襲わせたとの説もある。

*クリフォード卿ロジャー、2代 (Roger, 2nd Lord Clifford)  1321年、エドワード2世に対してランカスター伯トマス(Thomas, Earl of Lancaster)が反乱を起こしたときそれに加わった人物。翌1332年の3月16日、ヨークから北西約25kmのところであったバラブリッジの戦い(the Battle of Boroughbridge)で敗れ、彼はランカスター伯とともに捕らえられた。ランカスター伯はリーズの南東約20kmのところのポンティフラクト城に連行され、同月22日にそこで処刑された。


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