遥かなる わがヨークシャー (Faraway My Yorkshire)

リーズ (Leeds)

4 テンプル・ニューサム (Temple Newsam)

 ここからは、リーズ市の郊外へ出かけることにする。

 イギリスに来るまで英語の「カントリー・ハウス」という言葉は、単に、「田舎にある家」とか「田舎風の家」くらいにし思っていなかった。
 しかしこの国へ来てはじめて、そうではないことを知った。カントリー・ハウスとは、この国の貴族や裕福な上流階級が、地方に所有する広大な敷地に建ててきた「とてつもなく大きな館」のことを指す、特別の意味をもった言葉なのである。
 カントリー・ハウスのなかには、歴史的建築物として保存されているところもあるが、多くが、いまも上流階級の住居として使われている。そして館や庭園の一部が、一般に公開されているところもある。

 市の中心部から東へ6、7kmほどいったところに、テンプル・ニューサムというカントリー・ハウスがある。16世紀前半に、イングランド北部でノーサンバーランド伯につぐ有力貴族とされた、ダーシー卿トマスによって建てられた館である。
 赤レンガ造りでどっしりとしていることから、ヨークシャーでは「北のハンプトン・コート」と呼ばれている。
 名前にある「テンプル」とは、かつてこの地が、テンプル騎士団の領地になっていたことに由来している。
 ダーシー卿は、ヘンリー8世の宗教改革に反対して北部の人間が起こした反乱――恩寵の巡礼――にくわわったとして、1537年にロンドンのタワー・ヒルで斬首刑になった人物である。そのとき、彼の館と領地は募集されたが、そのころ館は、まだ完成していなかったとみられている。
 テンプル・ニューサムは、1544年にヘンリー8世の姪の夫である4代レノックス伯マシュー・ステュアートに下げあたえられた。そして翌1545年に、のちのスコットランド女王メアリー(在位1542-67)の再婚相手となるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートが、南翼棟の2階、東はしにある部屋で生まれた。そのことからそこは、いまも「プリンスの部屋」と呼ばれている。
 ところでそのダーンリー卿であるが、メアリーとの結婚2年後の1567年に、何者かの手によって殺害されてしまう。そしてメアリーは、ボスウェル伯ジェイムズ・ヘバーンを3度目の夫とするのである。ダーンリー卿の殺害は、そのボスウェル伯の陰謀とみられているが、それにメアリーがかかわっていたかどうかは分からない。
 テンプル・ニューサムは1622年に、ヨークシャー出身でジェイムズ1世(在位1603-25)の財務官をしていた、サー・アーサー・イングラムという人物によって買いとられ、ほぼ現在の姿になったとされている。
 館は、18世紀と19世紀にも改造や改修がくりかえされてきたが、それでも全体的な建築様式は、17世紀のジャコビアン様式とされている。
 いまはリーズ市によって管理され、博物館として、また各種イベント会場として利用されている。
 館の中には、リーズ市の北にある町オトリー出身の家具職人トマス・チッペンデイルの家具が、多数展示されている。
 チッペンデイルはイングリッシュ・ロココ様式の家具職人で、彼がつくりあげた様式は「チッペンデイル様式」と呼ばれ、アンティーク家具愛好家のあいだでは、垂涎の的になっている。
 カントリー・ハウスで館をとりまく敷地は、パークランドと呼ばれる。ここのパークランドは、約367ha――東京ドームにして280個分以上――もある広大なものである。そしてそこは、ランスロット“ケイパビリティー”ブラウンの設計によって、風景式庭園になっている。
 かつては「イングリッシュ・ガーデン」といえば風景式庭園のことを指していたというが、イギリスが誇るものの一つである。
 トマス・チッペンデイルとランスロット・ブラウンのふたりは、18世紀後半に建てられたカントリー・ハウスには欠かせない存在だった。多くのところで、彼らの作品を見ることができる。
 テンプル・ニューサムは市内にあったこともあって、何度か訪れている。広大なパークランドは、季節ごとにその表情を変え、わたしがもっとも気に入っているところの一つである。
 水彩画に描いたのは、秋に、館の東側に広がるパークランドの森の中から眺めた館である。


霧に煙る、テンプル・ニューサムのパークランド (The foggy parkland of Temple Newsam)
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From here I would like to visit outskirts of Leeds.

Country houses include tremendously large houses built by peers or wealthy upper-class families in their vast estates. While some of them are reserved as historic architecture, most of them are still used as the residences and some parts of them are open to the public.
The country houses were very interesting places where I could learn cultures and the historical events of England. They are the very treasure houses and museums.

Temple Newsam, which Yorkshire people call the "Hampton Court of the North", was the first country house that I visited, and it became one of my favorite spots.
This house has been associated with many historical people. The name of Temple comes from the Knights Templars who owned this manor that was seized by the Crown in 1308 because of their losing the favour of Edward II.
Thomas, Lord Darcy, the original builder of this house, was beheaded in 1537 on Tower Hill, London, for taking a principal part in the Pilgrimage of the Grace in 1536. The house was confiscated by Henry VIII and granted to Matthew Stewart, 4th Earl of Lennox and the husband of Margaret, a niece of Henry VIII, in 1544. His son Henry Stuart, Lord Darnley was born in the east room of the first floor of the south wing in 1545. So the room is still called "Prince's Room".
He married Mary, Queen of Scots at her remarriage in 1565, but unfortunately he was murdered in 1567. It is supposed possibly to be the plot of James Hepburn, Earl of Bothwell, who became Mary's third husband.
Sir Arthur Ingram, one of financiers of James I, owned Temple Newsam in 1622 and in his age the house was remodelled and enlarged. The house was also altered in the 18th and the 19th centuries, but is said to be in the Jacobean style of the 17th century on the whole.
In Temple Newsam I saw a lot of fine furniture made by Thomas Chippendale, one of two worldwide famous cabinetmakers who are proud of Yorkshire. He was born in 1718 at Otley, a village to be the northwest of Leeds. Young Thomas worked as an apprentice of a cabinetmaker in London and finally he became a master of it, making English rococo usually called the Chippendale style. The other cabinetmaker will be told later in this book.
The parkland of 917 acres spreading in the east of the house was landscaped by Lancelot "Capability" Brown, a genius gardener. Once I walked down a path, continuing through the woods, to its end. And when I turned around, I found the beautiful scene of the house standing on the parkland. It was very picturesque.
Many country houses of England could not do without these two men Thomas Chippendale and Lancelt Brown.
As Temple Newsam was situated in a suburb of Leeds, I visited it several times. In spring a daffodil contest was held. I remember now each season I enjoyed visiting there; spring flowers in full bloom, warm midsummer, foggy autumn and snowy winter.


*カントリー・ハウス(country house)  15世紀の終わりのころから、貴族などの上流階級が所領に建てるようになった大邸宅。彼らの本宅にあたり、現在も住居として使われているところが多い。何十もの部屋があり、その一部が一般に公開されているところがある。また、ギャラリーなどをコンサート会場や学会のレセプション会場などとして貸し出しているところもある。カントリー・ハウスは、建物の規模もさることながら、周囲にパークランドと呼ばれる、広さが数百haにもなる広大な敷地を有している。いまではその一部に、動物園や遊園地、キャンプ場などを併設しているところもある。

*テンプル騎士団(the Knights Templar)  キリスト教の聖地エルサレムと聖地巡礼者を警護するために、修道会と騎士たちが作った警察的な機能をもった結社の一つ。1118年ごろフランスで生まれ、1128年にエルサレム王国から正式に認められてソロモン神殿(テンプル)の跡地を本拠地としていたことから、こう呼ばれた。この騎士団は、聖地巡礼の警護だけでなく現金輸送や銀行業務などの経済活動も活発におこなっていた。また、ヨーロッパ各地に王族や大貴族から寄進された土地を数多く所有していた。非常に富める騎士団だったことから、そこをフランスのフィリップ4世に目を付けられ、1312年に異端の疑いで解散に追い込まれ、全財産を没収された。

*恩寵の巡礼(the Pilgrimage of the Grace)  ヘンリー8世の宗教改革に反対したイングランド北部のカトリック勢力が、ヨークシャーの法律家ロバート・アスクを指導者にして、1536年から37年にかけて起こした大規模な反乱。3代ノーフォーク公トマス・ハワードの軍隊によって鎮圧され、指導者や追随者が200名以上も処刑された。

*ジャコビアン様式(Jacobean)  17世紀のジェイムズ1世(在位1603-25)の時代に、大陸のフランドル地方の影響を受けて生まれた建築や家具の様式。ジェイムズのラテン語名ジェイコブからとってこう呼ばれる。建築では、玉ネギ形の屋根を頂いた塔や、建物の稜角に装飾的に積まれた隅石(コーナー・ストーン)、円弧と直角などを使った独特の輪郭をもった切妻屋根(ダッチ・ゲイブル)などが特徴。

*ランスロット“ケイパビリティー”ブラウン(Lancelot "Capability" Brown, 1716-83)  18世紀後半に活躍した風景式庭園造りの庭師。彼は、1740年代にストウの庭造りでウィリアム・ケントの右腕となって指揮をとり、1751年からは独立して風景式庭園を専門に設計するようになった。その後の32年間に140カ所以上の庭園を設計したとされる。初期の風景式庭園は自然の地形を生かしてつくられたが、彼は大規模に地形を改造し、川をせき止めて人口の湖をつくったりした。代表的な庭園に、ブレナム・パレス、チャッツワース、ホルカム・ホールなどのパークランドがある。ヨークシャーでは、テンプル・ニューサム、ヘアウッド・ハウス、リップリー・カースル、バートン・コンステイブル・ホール、スレドミア・ハウス、サットン・パークなどの庭園が彼の設計による。彼は庭園の設計を依頼されて現地を視察したとき、「ここはよくなる"可能性"が大いにある」というのが口癖だった。そこから彼は、「ケイパビリティー・ブラウン」のニックネームで呼ばれるようになった。

*風景式庭園(造り)(landscaped garden, landscape gardening)  カントリー・ハウスのパークランドに、ニコラ・プーサニやクロード・ロランらの古典的風景画にあるような崇高なまでに美しい風景を再現しようと、18世紀前半にイギリスで生まれた庭園造り。代表的なものに、1720年代から50年代にかけて造られたバッキンガムシャーのストウ、1740年代に造られたウィルトシャ―のスタウアヘッドがある。パラーディオ様式の建築家ウィリアム・ケントは、1730年代のストウでの経験から、風景式庭園はカントリー・ハウスにはかかせないものとし、積極的に取り組むようになった。この造園法は、彼の助手を務めたことがあるランスロット・ブラウンによって18世紀の中頃に確立された。風景式庭園に欠かせないものに、広い緑の空間と水辺、そこに点在するギリシャ風神殿などがある。この庭園造りは、19世紀前半までイギリスの上流階級のあいだで大流行した。彼らは、それまでのフォーマル・ガーデン(整形式庭園)である「フレンチ・ガーデン」に対して、風景式庭園を誇りを込めて「イングリッシュ・ガーデン」と呼んだ。19世紀に新しいスタイルのイングリッシュ・ガーデンが生まれるまで、イングリッシュ・ガーデンといえば風景式庭園のことを指していた。


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