ロレンス・スターンの物語

――『トリストラム・シャンディ』とシャンディ・ホール―― 

千葉 茂著 『ヨークシャーの丘からイングランドを眺めれば』
「第1部第3章 コックスウォルド――ロレンス・スターンという坊主」より



目   次

第1章 英文学最大の奇書 『トリストラム・シャンディ』

第2章 ロレンス・スターンの生涯

第3章 シャンディ・ホール





第1章 英文学最大の奇書 『トリストラム・シャンディ』


 ノース・ヨーク・ムーアズの南西部にひろがるハンブルトン丘陵(the Hambleton Hills)は、同じヨークシャーの丘陵地帯でも、北西部のそれにくらべると、自然がおだやかな印象をうける。それは、森が多く緑が豊かなことと、南にヨーク平地がひらけているからかもしれない。
 この緑の豊かなヨークシャーの片田舎に、英文学史上ひときわ異彩を放つ作家、かのロレンス・スターン(Laurence Sterne)が住んでいた家がある。ヨークの北約32キロのところにある小さな村コックスウォルド(Coxwold)の「シャンディ・ホール(Shandy Hall)」である。
 ここを発見したのは、じつはまったくの偶然だった。
 ある日、ヨークシャー北部の交通の要所サースク(Thirsk)から東へA170号線を、ハンブルトン丘陵へとドライヴしているときだった。ヨーク平地を見おろす丘の縁のサットン・バンク・トップ(Sutton Bank Top)のインフォメーション・センターの観光案内で、近くの村にスターンが住んでいた家があり、そこが資料館になっていることを知ったのである。
 ロレンス・スターンという作家は、1713年に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業して牧師となったが、うだつのあがらない田舎牧師だった。ところが1760年、46歳のときに発表した小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)』の一作をもって一躍、注目をあび、時代の寵児となった作家である。
 しかしその小説というものは、内容といい形態といい、従来の文学の分類にはおさまらないような風変りなものだった。それでいてその小説は、「20世紀の文学に、世界的にもっとも大きな影響をあたえた」と言われているのである。

 ロレンス・スターンを日本で最初に紹介したのは、夏目漱石だという。彼は、スターンを次のように紹介した。
 「今は昔十八世紀の中頃英国に『ローレンス、スターン』といふ坊主すめり、最も坊主らしからざる小説を著はし、其小説の御蔭にて、百五十年後の今日に至るまで、文壇の一隅に余命を保ち、文学史の出る毎に一頁又は半頁の労力を著者に与えたるは、作家「スターン」の為に祝すべく、僧「スターン」の為に悲しむべきの運命なり、」(『トリストラム・シャンディ』夏目漱石、漱石全集第十二巻、岩波書店)

 これを読んだだけでも、ロレンス・スターンとは何やらあやしげな作家に思え、読書好きの好奇心をかきたてるところがある。
 ところが、彼の著書『トリストラム・シャンディ』が、これまた曲者なのである。この作品の翻訳者である朱牟田夏雄は、岩波文庫の「まえがき」で、次のように記している。

 「まず形式からいっても思いつくかぎりの奇抜さをとり入れて、読者を唖然とさせることを目標としているかの如くである。サマーセット・モームなどが小説の極致としているところの、『始めあり、中あり、終ある』構成など糞くらえという形で、人を食ったといえばこれくらい人を食った作品はちょっと他に見あたらない。「どこが頭やらどこが尻尾やら、一向にわけのわからない海鼠(なまこ)の化物みたいな作品」というのは、たしか漱石をふまえた中野好夫氏の評だったと記憶するが、まさにその通りといってよかろう」

 その英文学者の中野好夫は、翻訳について論じた文章のなかで、『トリストラム・シャンディ』について、次のようにふれている。

 「たとえばスターンの例の『トリストラム・シャンディ』である。たしかに食欲はそそられる第一のもので、現に戦後二回ほどある雑誌で連載をはじめたことがある。その後なんどか続稿を頼まれたが、頑として辞退した。なまじあの奇文スタイルの日本語化などを考えてやりだしたのがいけなかった。とたんに悲鳴を上げたのである。原文の理解、解釈も大骨だったが、それよりもさらに、訳文にする段になってからが完全にお手上げであった」(『英文学夜ばなし』中野好夫、新潮選書)

 これらの評からも、『トリストラム・シャンディ』がいかに風変わりで難解な作品であるかが想像できよう。
 ロレンス・スターンが残した作品は、牧師としての説教集をのぞけば二作だけである。しかし彼はこの『トリストラム・シャンディ』の一作でもって、文学史に不滅の名を残したのである。
 この小説は、彼が亡くなる前年の1767年までに第9巻まで発表されたが、未完のままで終わっている。それでも朱牟田夏雄訳の岩波文庫版では、千ページ近くもある大著である。

 その『トリストラム・シャンディ』であるが、どう風変わりなのかというと、説明に窮するほどである。まず、読み進んでいっても、いっこうにストーリーが見えてこない。話はわき道へとどんどん逸れてゆき、物語性を期待している読者は、はぐらかされて、みごとに裏切られる。要するに、ストーリーがあるようでないのである。
 小説は、まず主人公の受胎時への嘆きからはじまる。ところが、それが誕生までの話につながってゆくかと思いきや、村の産婆や牧師の話となる。さらに、牧師の馬の話から道楽の話へとつづき、話はあらぬ方向へとむかい、何の話かわからなくなる。
 主人公のトリストラムは、語りの「私」としては登場してくるものの、第1巻、第2巻には出てこない。第3巻の終わりのころにようやく生まれてくるが、話の中心にはいない。話は、すぐにわき道へとそれてしまう。そして、第4巻に命名の場面が出てくるといった具合に、主人公はとぎれとぎれに登場してくる。こうして、彼の「生涯」と「意見」はどこかへ行ってしまう。
 では、小説はどう進行するのかというと、トリストラムの「父(my father)」と退役軍人の「叔父トウビー(my uncle Toby)」と彼の部下だった「トリム伍長(corporal Trim)」の三人が、おもな登場人物として出てくる。そして主人公そっちのけで、この三人を中心に話は進行する。そこに、脇役的人物が登場してくる。
 回想の場面があったり挿話があったりと、話は本筋をそれて脱線し、あらぬ方向へと行ってしまう。そして、忘れたころに、ひょっこりともとの話に戻ってくる。
 ところが作者は、

 「読書の生命・真髄は、脱線です。――たとえばこの私の書から脱線を取り去って御覧なさい――それくらいならいっそ、ついでに書物ごとどこかに打ち去られる方がよろしい」(第1巻・第22章、朱牟田夏雄訳岩波文庫より、以下同様)

 と言ってのける。

 「――だが、これはしたり、私は何の話をしていましたっけ? いつの間にか何とまあ、うれしい奔放な乱痴気さわぎの中にとびこみかけていることでしょう? どうせ生涯の途中で命をぶち切られて、妄想の力で借りて来るもの以外はそういう楽しい日々を味わうことなどとてもゆるされないときまった私ですのに――やい、このど阿呆の妄想め、すこし静かにしていろ! そしてこのおれに話の先をつづけさせるんだ!」

 となる。さらに、スターン流のやり方は、

 「既知の世界のあらゆる地域を通じて現今用いられている、一巻の書物を書きはじめる際の数多くの方法の中で、私は私自身のやり方こそ最上なのだと確信しております――同時に最も宗教的やり方であることも、疑いをいれません――私はまず最初の一文を書きます――そしてそれにつづく第二の文章は、全能の神におまかせするのです」(第8巻・第2章)

 となる。

 スターンは、脱線こそこの小説の真髄であると言う。したがって、話が「次はどう展開するのか」と思っていると、いつのまにか話題がそれ、前の話のつづきはどこかへ行ってしまう。そして次の章では、また別の話がはじまる。「さっきの話はどうなったのか」と思っていると、数章さきに、またひょっこりと顔をだしたりする。
 したがって話は行きつ戻りつし、脱線と飛躍をくりかえす。油断して読んでいると、すぐにこんがらかってきてわからなくなる。読むほうも、行きつ戻りつしなければならない。二度三度と読みかえして、やっと前後関係がはっきりしてくるところもある。まさに「なまこ」というべきか、「アメーバ」的である。

 しかしスターンは、それぞれの登場人物の側から見れば、これは脱線でもなんでもないという。そして朱牟田夏雄は、これこそがこの作品の魅力であると、岩波文庫の「まえがき」で次のように言っている。

 「冒頭の主人公受胎の場面での母親の不幸な連想をはじめとして、作中人物のいろいろな場面でのいろいろな連想が(中略)全然似ても似つかぬ方向に連想をはせてしまうなどという事実、さらには時に語り手自身、作者自身の連想作用も加わって、これらが互いに背馳したり交錯したりするところに、話が別れたり出逢ったりもつれ合ったりして、形の上では大脱線小脱線をくり返しながら、結構そこにある不思議な統一をかもし出しつつ話が「進行」してゆくのが、この作品の比類ない独特の魅力・風格となっている」

 また、この小説のもう一つの魅力は、「父」と「叔父トウビー」と「トリム伍長」のあいだにかわされる会話である。政治・宗教・歴史・哲学のことを話していると思っていると――それらは、当時の社会を風刺したり皮肉ったりしているので、容易には理解できないところもあるが――いつのまにか、日常的なたわいもない話や、猥雑な話に変わってしまう。そして、まるで落語のように、ストンと落とされるのである。

 この小説のスタイルになれるには、少し時間と辛抱が必要である。筋を追おうとしたり、先を読もうとしたりすると失敗する。
 しかし、スターンとともにひとたび自由な連想・脱線の世界に遊ぶことをおぼえると、これほど魅力的で引き込まれる文学はない。物語性がないのに、不思議とあとを引く小説なのである。

 「私の願うところはただ、『人にはその人のその人好きなやり方で話を進めさせるのがよい』という教訓が、世の人々に受け入れられることだけです」(第9巻・第17章)

 『トリストラム・シャンディ』には、形態や表現にも変わっているところがある。それも面白半分の気まぐれ、思いつきのようなものが各所にでてくる。
 その最たるものは、第1巻の第12章で牧師のヨリック(Yorick)――このヨリックは、シェイクスピアの『ハムレット』にでてくる道化のヨリックの子孫ということになっている――の死を悼むところである。スターンは「ああ、あわれ、ヨリックよ(Alas, poor Yorick!)」と嘆き、悲嘆のあまりに、次のページをまっ黒に塗りつぶしてしまうのである。
 また、第3巻第36章には、「マーブル・ページ」というものがでてくる。そして、

 「この次に出て来る墨流し模様のページの教える教訓など、とてもあなたにわかるものじゃありませんからね(このページこそ、私のこの著作のゴチャゴチャした象徴なんですがね!)。それはちょうど、世間の人たちがあれだけの賢さを持ち寄っても、いつかの真黒なページの暗黒のヴェールの下に今なお謎のごとく隠されたままになっている、無数の思想やら行為やら真理やらを、ついに解明できなかったのと同じことなんですよ」

 とくる。
 第4巻の初めには、ラテン語と英語の対訳のページがでてくる。
 第6巻の第40章には、直線と曲線でできた線が、五本、現れてくる。これらの線は、丸く飛びでたり、尖ったりして中心からはずれる。さらに曲がりくねったり、ループを描いたりする。渦を巻いているところもある。これら五本の線は、作者が第1巻から第5巻までにたどってきた話の進み方を表したものだと言う。そして、「今後はつぎのような模範的な進み方に到達することさえ、決して不可能ではありません」と言って一直線を引きながら、また脱線をつづけるのである。
 

 また、第9巻の第18章と第19章は、何も書いてない白紙のままのページである。
 これには、漱石も「未だ白紙を以て一偏となせる小説家を聞かず、之れ有るは「スターン」に始まる、而して「スターン」に終らん」(『トリストラム・シャンディ』漱石全集第12巻、岩波書店)としか言いようがなかった。
 そしてその次の第20巻は、いきなり*印の伏字ではじまり、これが数行つづいたあと、話題がすっかり変わっている。

 ところで、この*印で示される伏字の部分は、各所にでてくる。これは、読者に勝手な連想をさせる場面として使われているが、多くは、活字にできない、漱石いうところの「野卑に流れて上品ならざる事」を連想させるところである。
 たとえば第9巻第20章で、「叔父トウビー」にひそかに好意をよせる未亡人のウォドマン夫人(Mrs Wadman)に、彼が戦争で受けた鼠径部の傷のことで、あれこれとかってに妄想させる場面などである。
 ちなみに第8巻から登場するウォドマン夫人と「叔父トウビー」をめぐる話は、主人公の誕生から命名にいたる場面と同様に、この小説のハイライトをなすものである。
 またスターンは、口にできないことを、伏字のほかに、言葉を分割するという手法で表現しているところもある。第7巻で、ふたりのフランスの尼さんたちが出てくるところの話である。歩かなくなったロバを歩かせる呪文として、修道女が口にすれば「地獄に落ちる罪深き言葉」を、二つに分割して、ふたりに交互に叫ばせているのである。
 ウォドマン夫人の話といい尼さんたちの話といい、まるで小気味のよい落語の艶笑話のようである。漱石とちがって上品ならざる人間にとっては、難解で退屈な政治談議や歴史談義のあいだにひょっこり顔をだすこれらの個所が、『トリストラム・シャンディ』の魅力の一つに思えてならない。

 こんなわけであるから、作品のあらすじを説明するのは不可能に近い。読むほかないのであるが、残念ながら、朱牟田夏雄訳の岩波文庫版は絶版となっている。
 そこで、主人公「トリストラム・シャンディ」の受胎から誕生、命名についての部分を引用して、この小説の雰囲気を味わってもらうことにする。ただし、これらの場面は、とぎれとぎれに現れてくる。
 物語は、次のようにしてはじまる。

 「私めの切な願いは、今さらかなわぬことながら、私の父か母がどちらかが、と申すよりもこの場合両方とも等しくそういう義務があったはずですから、なろうことなら父と母の双方が、この私というものをしこむときに、もっと自分たちのしていることに気を配ってくれたらなあ、ということなのです。(中略)――こういうすべてを二人が正当に考慮し計算して、それに基づいて事を進めてさえくれたならば、この私という人間が、これから読者諸賢がだんだんとご覧になるであろう姿とは、まるでちがった姿をこの世にお示しすることになったろうと、私は信じて疑わないものです」(第1巻・第1章の冒頭)

 「この父は、商売上のことであれまた楽しみであれ、自分のする一切のことに、これ以上規則正しい人はいるまいという几帳面な人物でした。(中略)――父がその生涯の多年にわたって掟としていたのは、――どのつきもどのつきもきまって第一日曜日の夜に(中略)――裏の階段のてっぺんにおいてあった大時計のねじを、自らの手で巻くということでした。――そして、私が先刻からとりあげている話の頃には、年も五十歳と六十歳の真ん中どころになっていたので、――父はこの時計のことのみでなく、ほかにも母親だけを相手のこまごました用事なども、だんだん同じ時期にかためるようにしました。(中略)すべてをいっぺんに片づけてしまって、あとの一か月の間はそういうことに煩わされずにサッパリしていようがためだったわけです。
 それはよいとしまして、これにはただ一つだけ不幸がともなうことになりました。(中略)ついにはわたしの母親は、上述の時計のまかれる音をきくと、不可避的にもう一つのことがヒョイと頭に浮かんで来ずにはいない、――その逆もまた同じ、ということになってしまったのです」(第1巻・第4章)

 そして、第3巻でいよいよ主人公が生まれるわけであるが、難産となり、ひと騒動もちあがる。

 「―― 一つ、お願いじゃが、下になっているのが赤ん坊の頭であって絶対に尻ではないと、最終的に、責任をもって言えるかな?――そりゃあもう、まちがいなしに頭ですよ、産婆が答えます。いや、こういうことを聞くのはな、とスロップ医師は(私の父のほうをかえりみて)つづけました、こういうお婆さん方は多くの場合まことに自信たっぷりに断定なさるが――これは実に察知しにくい微妙な点なのじゃ――それでいてぜひ察知せねばならぬ重大な点でもある。――なぜといって、万一尻を頭と勘ちがいしたとすると、万一の場合(男の子の場合だが)鉗子で、大事な********************。
――その万一の場合鉗子でどうなるのかということを、スロップ医師はごく低い声で私の父の耳にささやき、つづいて叔父トウビーにもささやきました。――それが頭のほうだと、医師はつづけて、そういう危険はない。――そりゃその通りだ、父が言いました――」(第3巻・第17章)

 ところが、

 「――あの先生はけしからん道具を使って坊ちゃまをこの娑婆に引き出そうとして、スザナーの話では坊ちゃまの鼻を煎餅みたいにペシャンコにつぶしてしまったのだそうです。それで今、少々の綿と、それからスザナーのコルセットからとり出したちっぽけな鯨の骨のはしきれで、人口の鼻っぱしをこしらえて、坊ちゃまの鼻を高くしようというわけなのです」(第3巻・第27章)

 そして、命名のときになって、また災難が降りかかる。

 「この上ない大災難があの子の上を見舞った今――わしはこの上ないよい運命を持ってきてあの災難の埋め合わせ、あるいは取り消しをはからねばならん。
 弟よ、あの子にはトリスメジスタスという名をつけることにする。
 その名が兄上の期待にこたえてくれますように――叔父トウビーは立ち上がって答えました」(第4巻・第8章)

 「――このトリスメジスタスというのは、と今度は父は踏み出した脚をまた引き戻して、叔父トウビーのほうにむきなおりながら、つづけました――この世のあらゆる存在の中で最も偉大な存在だったのだ(トウビー)――最も偉大な国王でもあり――最も偉大な法の制定者でもあり――最も偉大な哲学者でもあり――それに最も偉大な司祭―技術者としてもでしょうな――叔父トウビーが申しました。――
――もちろんだ、父が答えました」(第4巻・第11章)

 ところが、副牧師に抱かれて名前を待っている赤ん坊の主人公が発作を起こし、死にかけるという騒ぎになる。父親は、女中のスザナーに命じて名前を伝えに走らせます。

 「――トリス何とかでした、スザナーはさけびます――キリスト教徒の名前でトリスで始まるなどというのは、副牧師が申しました――トリストラム以外には一つもないわい。ではトリストラムジスタスです。スザナーが申しました。――ジスタスなどついておらん、ばか者が!――ほかならむおれ自身の名前だからな、副牧師はそう言いながら片手を洗礼盤の中に浸しました――トリストラム!副牧師はいいました、ムニャムニャムニャムニャ。こうして私はトリストラムと名づけられ、このまま死を迎えるまでトリストラムというわけです」(第4巻・第14章)

 『トリストラム・シャンディ』は、ストーリーがあるようでないから、どこからでも読みはじめられる。そしていったん読みはじめると、妙に引きこまれてしまう。筋がないのにあとが気になり、なかなかやめられなくなる不思議な小説である。
 そして、「父」と「叔父トウビー」と「トリム伍長」らがかわす話は、何の脈絡もない与太話や脱線つづきの話でありながら、そこに不思議と一つの世界が見えてくる。ある統一された一貫性、雰囲気のようなものが生まれてくるのである。
 朱牟田夏雄は、これを「観念連合」あるいは「連想」といい、この小説のもっとも大きな特徴であるという。
 スターンがつくりだしたスタイルは、物語性よりも登場人物のそれぞれの考えや意識・心理――スターン流にいえば「意見」――や内面から、全体像を浮かび上がらせる手法である。
 これは、20世紀の「意識の流れ」を追求した作家たちの手法のさきがけとなるものだった。マルセル・プルースト(Marcel Proust)やジェイムズ・ジョイス(James Joyce)、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)などの一連の作家たちに、大きな影響をあたえたのである。
 しかしその「意識の流れ」は、小説を捕らえどころのない難解なものにしかねない。
 それを司馬遼太郎は『街道をゆく三十一 愛蘭土紀行U』のなかで、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』を引き合いにだし、次のように評している。

 「意識の流れが、泉のように言葉が湧いて流れるままにまかせられるとすれば、創作上の一種の無政府主義かもしれない。読み手としては、作者の意識の流れのままに身をまかせ、いわば溺れ死ぬことも覚悟して流れてゆくのが最良の態度なのであろう。べつの読み手――つまり川岸で流れをながめて、自分の想像力で読もうとする読み手(私もそうだが)にとっては一ページに何度もとまどう」

 けだしこの評は、そのまま『トリストラム・シャンディ』にも言えることである。
 日本でスターンの影響をうけた作家といえば、まず夏目漱石である。『吾輩は猫である』は、手法、様式からいっても『トリストラム・シャンディ』を思わせるところがある。
 苦沙弥先生に迷亭、寒月らのまじめそうでたわいもない話などは、まさに「父」と「叔父トウビー」、「トリム伍長」のそれを思わせるものである。
 関連性のないたわいもない話の内側にある、ひとりひとりの人間の内面と意識。それらから醸しだされてくる全体像。一見、バラバラで脈絡のないところから全体が見えてくる。これこそスターンの手法である。

 ところで漱石の場合では、個々の人間の内側に、どこか虚無的なかなしさが漂っている。

 「のんきとみえる人々も、こころの底をたたいてみると、どこか悲しい音がする」

 これにたいしてスターンの場合は、乾いたユーモアで笑い飛ばしているところがある。

 「――真のシャンディ精神というものは、皆さん方がなんとお心の中で悪く思っておられようとも、人間の心と肺臓を押しひらくもの、そしてこの精神と質を同じくするすべての情愛と同じように、人間の肉体に宿る血液とかその他の生命に関係がある液体とかを、その正常な進路に惜しみなく送り込むもの、そして生命の車を長く快活に回転させつづけるものなのですから」(第4巻・第32章)

 スターンのこの作品は、見方によっては、才能の浪費と言えなくもないものである。その背景を探るには、彼の生涯についてふりかえってみる必要がある。



第2章 ロレンス・スターンの生涯

 ロレンス・スターンは、1713年、高位聖職者を輩出する名門の家系に生まれた。父方の曽祖父リチャード・スターン(Richard Sterne)は、ケンブリッジ大学のジーザス・カレッジの学寮長(dean)をつとめ、そのあとヨーク大聖堂の大主教(Archbishop of York)となった人物である。
 ヨーク大主教の地位は、国教会では最高位であるカンタベリー大主教に次ぐものである。したがって、曽祖父は聖職者のなかではエリート中のエリートだったのである。
 祖父のサイモン・スターンは(Simon Sterne)は、13人兄弟のなかで成人した3人のうちの末っ子だった。彼は、名門の家系の生まれということでヨークシャー東部の裕福な女性をめとり、この地方の大地主になった人物である。しかし彼はそれだけの人間で、放蕩三昧の生活をおくったようである。
 父ロジャー・スターン(Roger Sterne)は、三男三女中の次男だった。この父が、祖父に似たのか、軽薄でのん気な変わり者だったという。彼は、次男だったので相続権はなかったが、名門の家系の生まれには違いなかった。それにもかかわらず、16歳のときに家を飛びだし、軍隊に入ったのである。そして、兵士として各地を転々とする生活を送っていた。
  そうするなかで、ロジャーは子供を連れた元兵士の未亡人アグネス(Agnes 出もどりとの説もある)と知り合い、結婚することになった。
 アグネスは、軍隊とともに移動しながら物品を供給するアイルランド商人の娘だった。ロジャーは、彼女の父親に「うちの娘と結婚するなら、今までにたまっている酒代をチャラにしてやる」と持ちかけられ、その話に乗ったというのである。のん気ものん気、いいかげんなのも相当なものである。

 ロレンスは1713年、父の所属する軍隊がアイルランド南部に駐屯しているときに、クロンメル(Clonmel)というところで生まれた。そして10歳になるまで、軍隊とともに各地を移動する生活を送っていた。
 『トリストラム・シャンディ』のなかにでてくる「叔父トウビー」と「トリム伍長」のやりとりは、このころのロレンス少年を取り巻く男たちが交わしていた話からきているという。
 10歳になったとき、ロレンスはヨークシャー西部のハリファックス近くのハイパーホルム(Hipperhholme)の学校に入れられた。
 彼は、この学校で一つの逸話を残している。まっ白に塗りかえられたばかりの教室の天井に、自分の名前を大書きしたのである。そして彼は担任の教師に叱られて鞭を打たれたが、校長は逆にロレンスの大胆さをほめたという。

 ロレンスが18歳になった1731年、父親が、軍の駐留先だったジャマイカで熱帯病にかかって死んでしまった。すると母親のアグネスは、ロレンスひとりをイングランドに残したまま、ふたりの娘をつれてアイルランドに帰ってしまった。
 スターン家の人間は、アグネスが生まれの良くない無教養な女であることを理由に、彼女とは親戚づきあいもしなかったようである。
 それでも、ロレンスは伯父のリチャードの世話になり、彼の援助をうけながら学校をつづけることができた。
 しかしこの伯父が1732年に他界してしまうと、ロレンスはまったくの無一文で取り残されてしまった。
 これに手を差しのべたのが、伯父の息子で父と同名の従兄リチャード・スターンだった。彼は祖母方の財産を相続していて、非常に裕福だったという。
 1733年、ロレンスはその従兄の援助をうけて、曽祖父ゆかりのケンブリッジ大学のジーザス・カレッジ(Jesus College, Cambridge)に入学することができた。そしてロレンスは、在学中も親代わりとなった従兄の支援を受けて、さらに、かつて曽祖父が創設した奨学金も受けることができた。しかし生活は苦しく、借金が絶えなかったという。
 また、ロレンスはこの学生時代に、彼が「生涯の敵」と呼んだ結核にかかり、喀血したこともあったという。

 1737年、24歳でケンブリッジ大学を卒業したロレンスは、国教会の執事となった。この職は、聖職者のなかでは最下位の地位で、生活に貧窮することには変わりがなかった。
 ところが、ロレンスはやがてひとりのパトロンを得ることができた。父の弟ジャックス・スターン博士(Dr. Jaques Sterne)である。彼はヨーク大聖堂の居住参事会員(residentiary canon)で、主唱者(precentor)という地位にあり、さらにクリーブランド大執事(Archdeacon of Cleveland)でもあった。したがってスターン博士は、ヨークシャーの宗教界では、かなり高い地位にあった人物である。
 しかし、ジャックス・スターンはなかなかの曲者で、ロレンスが父を亡くしてひとり取り残されたときには、それを見て見ぬふりをしていた。ところが、ロレンスに文章を書く才能があるとわかると、ジャックスは、それを利用してやろうと思ったのである。
 なにはともあれ、1738年、ロレンスは叔父ジャックスの世話で、ヨークから北へ13キロ行ったところのサットン・オン・ザ・フォレスト(Sutton-on-the-Forest)の教区代理牧師(vicar)となり、牧師館もあたえられた。そして1741年には、ヨーク大聖堂の参事会員(canon)にもなることができた。
 叔父のジャックス・スターン博士は熱烈なホイッグ党員で、事実上の英国の初代首相とされるサー・ロバート・ウォルポール(Sir Robert Walpole)の熱烈な支持者だった。
 さらにスターン博士は、ヨークのホイッグ党新聞の創設者でもあった。彼は、その新聞の政治記事をロレンスに書かせるために、ロレンスのパトロンとなり、職を世話したのである。その結果、ロレンスは、このときからホイッグ党とトーリー党の政治抗争に巻き込まれるようになった。
 1741年から1742年にかけて、下院の補欠選挙の運動がおこなわれた。このとき。ウォルポール政権はスペインとの戦争をめぐって揺れており、この選挙はきわめて重要な意味を持っていた。そのため、二つの政党のあいだには誹謗と中傷が飛びかい、さらに、強迫や買収などの不正行為が横行していた。この選挙は、当時の基準からみても、かなり汚れたものだったようである。
 このとき、ロレンスはホイッグ党側にたった政治記事を書かされていた。しかし彼自身は、じつのところ政治にはあまり興味がなく、非難の応酬をくりかえす政治論争にはうんざりしていたという。
 ホイッグ党は、この選挙に勝ったものの、政権を支えるほどの力がなく、ウォルポールは辞任に追い込まれてしまった。
 ロレンスに残ったものは、政治運動への嫌悪感と虚しさだけだった。そこで、彼は選挙運動にかかわったことを公に謝罪し、政治から遠ざかっていった。
 ところが、これに激怒したのが叔父のスターン博士だった。それ以来、彼はロレンスを目の敵にするようになり、ロレンスの国教会での出世は、期待できなくなってしまったのである。
 しかしロレンスは、サットンに帰ってもとの田舎牧師に戻ると、以前のような静かな生活がおくれるようになった。
 あとになってから、彼は叔父のことを「彼は政党の人間だったが、私はちがった。あのような汚れた仕事は、私にはふさわしくなかった」と書いている。ロレンスは、本来は非常に誠実できまじめだったのである。
 
 1741年、ロレンスはエリザベス・ラムリー(Elizabeth Lumley)という女性と結婚をした。彼女は、ウェンズリーデイルへの入口への町ビデイル(Bedale)の牧師の娘だった。しかし15歳の時に両親を亡くし、親の遺産を頼りに、ヨークでつつましく暮らしていた。そのとき、ロレンスと知りあったのである。
 ロレンスとエリザベスとのあいだには三人の子供が生まれたが、ひとりの娘しか育たなかった。そして、ロレンスとエリザベスの仲はあまりよくなく、ふたりの結婚は幸福なものではなかったようである。
 エリザベスは気が強く、気難しい女性だった。牧師館でロレンスと長く暮らすこともなく、娘を連れてすぐにヨークにあった家に帰ってしまうということをくりかえしていた。
 隣人によると、「彼らはまるで別の方向へ進もうとしている馬のようだった」という。
 エリザベスの従姉妹に青鞜派のモンタギュー夫人(Mrs. 'Blue-stocking' Montagu)がいるが、彼女によれば、「スターン夫人は、最高に誠実で多くの美徳をそなえていた女性であるが、それらは、気難しくて怒りっぽいヤマアラシのとげのようであり、なことにも矢のように身構えていた。間違ったことはせず正しいことだけをなしたが、そのやり方は、人を不快にさせるものだった」という。
 とはいうものの、ロレンスも結構、女性には気が多かったようで、彼女だけが責められるものでもないようである。

 1744年、ロレンスはサットン・オン・ザ・フォレストの北隣の村スティリントン(Stillington)の教区代理牧師となった。このころの彼は、説教師としてけっこう人気があり、説教会にはたくさんの人が集まったという。
 ところが、彼には父親ゆずりの気まぐれで衝動的なところがあった。ある日、説教に行く途中で、連れていた犬がヤマウズラ(partridge)の群れを見つけたことがあった。すると、ロレンスは牧師館にもどって銃をとってくると、説教会にあつまった村びとのことなどすっかり忘れ、ヤマウズラ撃ちに夢中になっていたという。
 このころ、ロレンスはヨーク大聖堂でも説教することがあった。そこの首席司祭(dean)をつとめていたのは、彼のケンブリッジ大学時代の友人ジョン・ファウンテイン(John Fountayne)だった。
 1747年、そのファウンテインが、ヨーク大主教と大論争するという事件が起こった。ロレンスは友人として、ファウンテインの参謀役をひきうけることになった。
 ところが、大主教側についたのは、叔父のジャックス・スターン博士だった。そして彼は、ロレンスが敵側にまわったことを知ると、それに腹を立て、ロレンスに嫌がらせをするようになったのである。
 このころ、ロレンスを見捨ててアイルランドに帰っていた母親が、娘たちを連れてイングランドに戻り、ヨークで暮らしていた。彼女は、息子が資産家の娘と結婚したと思いこみ、それをあてにしてやって来たのである。ところが、彼女の期待はみごとに外れ、結局は多額の借金をかかえた生活をおくっていた。
 これを知ったスターン博士は、ロレンスにはまったく知らせることなく、彼女に「借金を返すあてがなければ債務者刑務所に入るしかないだろう」と言いふくめ、そうさせたのである。こうしておいて、スターン博士は「ロレンスは母親を借金から救おうともせず、刑務所に入れた」と言いふらし、ロレンスを非難したのである。
 ロレンスは、それを知るや否や、すぐに借金を肩代わりして母親を監獄から救いだした。しかし、彼の評判は落ち、そのダメージはいつまでもあとを引いたという。
 選挙事件以来、叔父の妨害で、ロレンスの聖職者としての出世の道は絶たれていた。しかし、ロレンスは話がうまく、彼の説教は面白いと人気があった。彼は、多くは望めなくても、聖職者としては順調にいっていた。
 ところが、ここで叔父によってロレンスの評判は貶められ、彼はふたたび打ちのめされたのである。

 しかし、ロレンスを見捨てない友人たちもいた。コックスウォルドのニューブルー・プライアリー(Newburgh Priory)のマナー・ハウスに住むフォーコンバーグ伯爵(Earl of Fauconberg)や、ファウンテインらである。
 彼らは、ロレンスにヨーク近くの四ヵ所の町や村の神聖法廷(the spiritual court)の主教代理(commissary)というポストを斡旋したのである。しかしこれらのポストは、地域社会においては名誉あるものだったが、収入にはほとんど結びつかないものだった。
 それでも、このあとの十年あまりのあいだ、ロレンスは貧しくはあったが、比較的平穏な田舎暮らしを送ることができた。

 そのロレンスが作家となるきっかけは、ほとんど偶然のようなものだった。
 1759年1月、ヨーク大聖堂の首席司祭でロレンスの友人だったジョン・ファウンテインと神聖法廷のフランシス・トパム博士(Dr. Francis Topham)とのあいだに、大論争が勃発したのである。
 ふたりは長年、折り合いが悪かったが、論争のきっかけは、トパム博士が「ファウンテインがある約束をやぶった」と非難する冊子を出したことにあった。それが、反論と非難の応酬をくりかえす大論争に発展していったのである。
 この論戦に、ロレンスはふたたび友人側に立って参戦することになった。そして、トパム博士を痛烈に風刺した『政治的空談(A Political Romance)』というものを発表した。
 このロレンスの参戦は、論争に大きな影響をあたえることになった。彼の『政治的空談』のなかで嘲笑の的とされたトパム博士はこの論争に敗北し、それにいっきに終止符が打たれたからである。
 しかしそれと同時に、ロレンスの教会での地位もここまでとなってしまった。なぜならば、彼の書いた『政治的空談』は、ヨーク大主教をはじめとする高位聖職者の権威を失墜させる内容だったからである。何しろその内容は、「彼らの汚い下着を公衆の面前にさらしたようなもの」だったという。ロレンスは、長年叔父からの嫌がらせや宗教界の鼻持ちならない権威主義、欺瞞にたいする鬱憤を、『政治的空談』のなかで、いっきに爆発させていたのである。

 この論争の結果、ロレンスの教会での出世の道は、完全に閉ざされてしまった。しかし彼は、偶然にも、自分には作家としての才能があるのではないか、ということに気がついた。そして、彼は著作活動に新たな道を見いだそうと思ったのである。
 ロレンスは、ヨークシャーの宗教界を揺るがした『政治的空談』がおおいに気に入り、それを出版しようとした。ところが友人たちは、「あまりにも宗教界の権威を損ない、影響が大きすぎる」と批判的だった。そこで、ロレンスは出版を断念し、原稿をしぶしぶ焼却したという。

 しかし、ロレンスは書くことに期するものがあり、簡単にはあきらめなかった。彼は、すぐに次の執筆にとりかかることにした。それが『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』だったのである。
 ロレンスは、おおいに意気込んで執筆をつづけていた。そのころの逸話が、一つ伝えられている。
 第1巻と第2巻の執筆中のある夜、ロレンスは友人たちにその原稿を読んできかせていた。」ところがその最中に、そのなかのひとりが居眠りをはじめたのである。それを見たロレンスは、かっとなって、原稿を暖炉の火のなかに放り込んでしまった。しかし、友人のひとりがあわててそれを取り出したので、原稿は焼失せずにすんだという。
 それはともかく、6月、ロレンスは第1巻と第2巻を脱稿することができた。そして、その原稿を友人たちに読ませたところ、その反応は、「聖職者の書いたものとしては不謹慎だ」と、またしても批判的なものだった。
 それでも、ロレンスの出版したいという気持ちは変わらなかった。そこで、彼はまずヨークの書店に出版の話をもちかけてみた。ところが、「風刺が強烈すぎる」と断られてしまった。次に、ロレンスはロンドンの書店に話を持っていった。しかし、そこでも同じような理由で断られてしまった。
 そこで、ロレンスは友人たちの批判をうけいれ、最初の版を修正することにした。また、書き直しているうちに、彼自身にも、強烈な風刺よりもより寛容なユーモアへと、少しずつ気持ちの変化が起こっていた。

 この年の初夏、ロレンスが第1巻と第2巻を脱稿する少し前に、母親のアグネスと叔父のスターン博士が、相次いで亡くなった。
 秋になると、妻のエリザベスが精神を病みはじめていた。そして、彼女は自分がボヘミアの女王だと思い込むようになった。しかし、ロレンスはそれに逆らわず、侍従のようにふるまって彼女の世話をしたという。
 ロレンスは、憂鬱な気分のなかでロンドンの書店と交渉し、自費出版の形で、なんとか本が出せるようになった。しかし、彼はこのために多額の借金をしなければならなかったという。
 1759年の終わり近くになって、ようやく本が完成し、ロンドンとヨークの書店であつかってもらえることになった。そして1760年の1月、今日、我々が知るところの小説『トリストラム・シャンディ』が発売されたのである。
 反響はいかに。このころのロレンスは、孤独と不安から、ヨークに講演にきていた歌手のキャサリン・フォアマンテル(Catherine Fourmantel)との交際に走ったりしている。

 ロレンスの心配に反して、本の評判は、なかなかのものだった。
 1760年3月、ロレンスは本の売れ行きを確かめるために、郷士で友人のスティーヴン・クロフト(Stephen Croft)の四輪馬車を借り、ロンドンへとむかった。
 ロンドンに着くと、ロレンスは次の日の朝、本屋をまわっては『トリストラム・シャンディ』を買おうとした。ところが、どこの本屋に行っても、一冊も手に入れることはできなかった。彼の本は、店に並ぶとすぐに評判となり、たちまち売り切れてしまったからである。
 それからというものは、最初の2巻の第2版につづいて、第3巻と第4巻、さらに2巻の説教集と、順調に出版の契約がとれていった。
 ロレンスのことはロンドンの街でも話題となり、彼が聖職者であると知ると、誰もが驚いたという。
 ロレンスの話ことは本と同じように突飛で面白いと、彼はどこへ行ってももてはやされた。社交界や宮廷にも招かれるようになった。
 のちにロイヤル・アカデミーの初代会長となるジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds)は、ロレンスの肖像画を描き、ウィリアム・ホガース(William Hogarth)は、第2版のための挿画を描いた。
 5月末、ロレンスはロンドンから戻ってきたが、このときの彼は、彼自身の四輪馬車に乗っていたという。

 ところで、ロレンスの本にたいする批判や反発が、まったくなかったわけでもなかった。本のなかで話のたねにされた何人かの主教たちは、「趣味が良くない」と腹を立て、苦情を言ってきたりもした。
 そこでロレンスは、次の巻からは、個人が特定されないようにと、話を一度バラバラにし、それに「お上品なユーモア」をまぶして再構成していった。彼はその仕事に大いに苦労したが、大笑いしながらやってのけたという。

 ロレンスはこの年(1760年)の3月からコックスウォルド教区の副牧師を兼任していて、フォーコンバーグ伯から、そこに住居をあたえられていた。そして、ロレンスがコックスウォルドに戻ってきたころには、ヨークに住んでいた妻の健康状態もだいぶ良くなり、彼女も娘とともにここに移ってきた。
 フォーコンバーグ伯からあたえられた住居は古い家だったが、ロレンスはそこが大いに気に入っていた。そこで彼と友人たちは、小説のなかのシャンディ一家になぞらえて、この家を「シャンディ・ホール(Shandy Hall)」と呼ぶことにした。
 健康的な空気と静かな思索の時間。ガーデニングにニューブルー・プライアーへ招かれての食事。近くのバイランド修道院の廃墟への散歩。それに以前から好きだった読書や絵、ヴァイオリンの演奏、狩猟などをして過ごし、ロレンスは、かつてない幸福な日々をおくることができた。
 彼は700冊の本を買い込み、それをお気に入りの部屋に整理して並べるのに、1週間もかかったという。
 この豊かな自然と充実した時間のなかで、ロレンスは『トリストラム・シャンディ』の続巻の執筆に集中することができた。
 1760年の終わりごろ、彼は第3巻と第4巻の印刷具合を見るために、ロンドンへと出かけたいった。そして、そのままロンドンに滞在し、コックスウォルドに戻ってきたのは、翌1761年の6月のことだった。
 10月の末、ロレンスは第5巻と第6巻を脱稿したが、彼の体のなかでは、それまで静かに眠っていた、彼の「生涯の敵」が目を覚まそうとしていた。ロレンスは、この年の11月末にふたたびロンドンへ出かけていったが、そのとき喀血に見舞われ、死の瀬戸際まで追い込まれたのである。それでも彼は回復し、翌1762年の新年には、療養のためにフランスへ行くこともできた。しかしこのとき、ロレンスは万一に備えて、妻子宛の遺言状を妻の従姉妹になるモンタギュー夫人に託していたという。
 パリで健康をとり戻したロレンスは、サロンに顔をだしたり芝居を見物したりするまでになっていた。ところが、6月にふたたび大喀血に見舞われてしまった。それでもロレンスは、今回も回復することができた。夏になって妻と娘がフランスにやってくると、いっしょにトゥールーズにまで旅行することもできた。
 しかしこのときの無理がたたったのか、ロレンスは声を失い、彼の声は完全には元通りにならなくなってしまった。好評だった彼の説教も、もはや困難となったのである。
 スターン一家は、1763年の9月までフランスの各地を旅行してまわった。そのあとモンペリエに落ち着き、妻と娘はそのままそこに滞在することになった。そして、ロレンスだけが翌1764年の3月、イングランドに帰ってきた。

 ひとりコックスウォルドに戻ったロレンスは、誰にもわずらわされることなく、第7巻と第8巻の執筆にとりくむことができた。しかしそうするあいだも、彼はたびたび喀血に見舞われていた。
 1765年10月、ロレンスは療養をかねたイタリア旅行にでかけ、半年以上をかけて各地を見てまわった。そのあと帰国の途につくと、1766年の5月、彼は、フランスで二年ぶりに妻子と再会するのだった。
 6月、ロレンスは、ふたたびひとりでコックスウォルドに戻ってくると、続巻の執筆に専念することにした。
 8月末、彼は、ヨーク大聖堂で半ば失った声で説教をおこなったが、これがここでの彼の最後の説教となった。

 1767年の初め、ロレンスは社交界を楽しむために、ロンドンへと出かけていった。そして友人の家で、エリザベス・ドレイパー(Elizabeth Draper)という人妻と出会った。
 彼女はインド生まれのイングランド人で、14歳で結婚し、17歳までにふたりの子供の母親となっていた。彼女の夫は東インド会社の社員で、ボンベイに駐在していた。
 エリザベスは、子供たちの教育のために、たまたま一時帰国しているところだった。ロレンスに出会ったとき、彼女はまだ23歳だったが、博識で知性あふれる女性だった。そして、彼女は作家になる夢をもっていて、作家にあこがれていた。そのため、エリザベスはロレンスにあったときから彼にひかれ、好意を寄せるようになっていた。
 ロレンスは、エリザベスよりも30歳も年上で、そのうえ、病でやつれていた。しかし、彼女はそれを少しも気にかけなかった。
 ロレンスは、先がそう長くないと悟っていたのかもしれない。彼にとって、これは最後のときめきだった。
 そして、ふたりが密会するようになるまでに、時間はかからなかった。しかし、エリザベスの夫の耳に入るのも早かった。その結果、彼女はすぐにイングランドを離れることになった。ロレンスとエリザベスは、再開するときのためにと、お互いに日記をつけることを約束して別れた。
 5月末、ロレンスはシャンディ・ホールに戻ってきたが、そのときの彼は、失意と病から、死人のようになって馬車に横たわっていたという。
 コックスウォルドに戻ると、そこの自然はロレンスの心を癒し、精気をあたえてくれた。そして、彼はふたたび執筆活動に専念できるようになった。彼は、友人に次のように書いている。

 「コックスウォルドでは、私はまるで王子のような幸せな暮らしをしている。この豊かな土地でどんなふうに過ごしているか、あなたに見せたいくらいだ。私の食卓には、鹿の肉、魚、鴨やアヒルが並んでいる。庭には、百羽ほどのニワトリもいる」

 ロレンスは、いつかエリザベスがコックスウォルドにやって来たときのためにと、シャンディ・ホールに「太陽だけが見下ろす、こざっぱりとした簡素な部屋」を用意した。そして、ひとりそのときが来るのを待っていた。
 ロレンスは、エリザベスへの日記をつづりながら、次の作品にとりかかった。フランスを旅行したときの漂泊の思いをつづった『センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)』である。
 10月になると、妻と娘が、フランスに永住することを伝えるために、一時帰国してコックスウォルドにやってきた。そしてふたりは、ロレンスに用件だけを伝えると、すぐに戻っていった。

 ロレンスは『センチメンタル・ジャーニー』の2巻を仕上げると、出版のために、クリスマスの日に原稿を持ってロンドンへと出かけていった。しかし、このあいだも彼は喀血に見舞われ、もはやそれは止まらなくなっていた。彼はロンドンの友人に、「私は心身ともに弱っています。私がお宅に伺ったときには、幽霊がきたかとお思いになるでしょう」と書き送っている。
 それでも、ロレンスはロンドンの社交界を楽しみ、新しい肖像画のためにレイノルズの前に座ることができた。しかし、この肖像画は完成することがなかった。
 この年の冬は寒く、ロンドンでは悪性の風邪が猛威をふるっていたという。寒さの厳しい2月、ロレンスは新しい著書への称賛のなか、その風邪に倒れてしまった。そして肋膜炎をひきおこし、彼の体は急速に衰弱していった。
 1768年3月18日、ロレンスは、ボンド・ストリートの宿泊所で「その時がきた」とつぶやくと、静かに息を引き取ったという。55歳だった。

 彼の葬儀は、ロンドンのハノーバー・スクェア―のセント・ジョージ教会でおこなわれ、遺体はそこの墓地に埋葬された。
 ところが二日後の夜、彼の墓は掘りかえされ、遺体が盗まれてしまった。
 当時は、大学での解剖学の教材として売るために、よく墓から埋葬直後の遺体が盗まれることがあったという。ボディー・スナッチャーという死体泥棒がいたのである。
 ロレンス・スターンの遺体も墓から盗まれると、ケンブリッジ大学に送られていた。そして、解剖台の上に横たえられたロレンスの遺体を前に、まさに講義がはじまろうとしたときだった。参加者のなかにロレンスの顔を見知っていた者がいて、大騒ぎになったのである。講義はすぐに中止となり、ロレンスの遺体はすんでのところで切り刻まれるのを免れることができた。そして彼の遺体は、静かにもとの墓に戻されたという。

 それから二百年余りのちの1969年、再開発のために、墓地が整地されることになった。
 このときは、その二年前に設立された「ロレンス・スターン・トラスト(the Laurence Sterne Trust)」によってロレンスの遺骨が発掘され、墓石とともにコックスウォルドに移されることになった。そして6月8日、ロレンスの遺骨は、彼がこよなく愛したヨーク平地を見渡すセント・マイケルズ教会(St. Michael's Church)に葬られたのである。
 1450年に建てられたセント・マイケルズ教会は、八角形のめずらしい塔を持ち、小さいながらもヨークシャーでももっとも美しい教会の一つとされているところである。
 ロレンスの墓は、この教会の南側のポーチを出たすぐ左側のところにある。
 墓碑銘は、ロレンスがふざけたときに好んで発したという言葉「ああ、あわれ、ヨリックよ」ではじまる。不鮮明なところがあり、また英語力不足から正確ではないが、墓碑にはさらに次のような意味のことが刻まれている。

 「スターンは、健全な理性に熱い心と人間性、汚れなき魂と強靭な精神力をもって、世にはびこるあまたの愚かさに巨人のような歩みで立ち向かい、大鎌をふるってなぎ倒し、不滅の名声をかちえた男だった」

 名門の家系に生まれ、才能に恵まれながら、スターンはその強烈な批判精神ゆえに、現実の社会ではきびしい状況に追い込まれていった。しかし、彼はそれを風刺と皮肉、ユーモアで吹き飛ばす精神力をもっていた。

 「この世の中のどんな事でも、父は申しました、笑いの種を一杯にはらんでいないものはない――同時に何ごとによらず機智の種、教訓の種も含んでいる――ただわれわれのほうがそれに気づかないだけなのだ」(第5巻・第32章)

 作品が認められて一躍、時代の寵児となったとき、ロレンスはすでに死を意識せずにはいられなかった。それでも、彼の執筆力は衰えることがなかった。その力は、いったいどこから来ていたのだろうか。

 「私は私の気力に、大いに――大いに感謝せねばならぬと思うのです。本当におまえはこの私に、人生の重荷を全部背負ったまま(人生の苦労は別ですが)、この世の道を実に上機嫌で歩ませてくれた。私の生涯のいかなる瞬間においても、私の記憶するかぎり、おまえはただの一度も私を見捨てたことがなく、あるいは私の目にふれるいかなる対象にも、おまえは不吉な黒とか病人を思わせる蒼さなどの色を着色したことがなかった。危険がせまった時おまえは私の前方に希望の光をかがやかせ、死神が私の扉をたたいた時でさえも――おまえは奴に出直して来いと叫んでくれた。それもおまえの言い方が実に平然とした無造作な陽気な調子だったものだから、奴が自分の使命に疑いを感じたくらいだった――『こりゃ何かのまちがいがあるにちがいない』そう奴がつぶやくのが聞こえたくらいです」(第7巻・第1章)

 「よいことと悪いこととの間には、トウビー、世間で想像するほどの大きなちがいはないのだ――労、悲しみ、嘆き、欠乏、禍い、これらは人生に味を与えてくれるものだ」(第5巻・第3章)

 「人間の一生とはなんでしょうか? それはただこちら側からあちら側へ――悲しみから悲しみへと移り動くだけのものではないでしょうか?」

 「トウビーよ、死の面相に恐ろしさなど何もありゃしなし、あるのはただ嘆きとか痙攣とかから死が借りているものだけだ――(中略)――われわれが存在するとき――死は存在しないし――死が存在するときわれわれは存在しないのだ」(第5巻・第3章)

 彼には、いつも、どこか醒めたようなおおらかさがあったのではないだろうか。それが、彼をして最後に「王子のように幸せである」と言わしめたのだろう。

 「私の統治する王国をえらぶとことをゆるされるとしたら、(中略)私は心から笑う国民たちの国をえらびましょう。そして、気むずかしいむっつり屋の心情というものは、とかく血液やその他の体液に無用の混乱をひき起こして、ひとりひとりの肉体にも国の全体にも悪い影響を及ぼすものですし、――そういう心情の持主たちを完全に統治して理性に従わせるのは善行の習慣以外のものではできないのですから――私がもう一つ私の祈願に加えたいのは――神がわが統治する国民たちに、陽気であると同時に賢明でもあるだけの恵みを与え給わんように、ということです」(第4巻・第32章)

 シャンディ・ホールにある、1766年にジョウゼフ・ノルケンズ(Joseph Nollekens)によって製作されたロレンス・スターンの胸像は――斜め前を見据えているが――口元に含み笑いを漂わせているように見える。何かを言えば、ニヤッと笑って皮肉の一つも言われそうである。
 それにしても、同じ牧師でありながら、ロレンス・スターンとブロンテ姉妹の父パトリック・ブロンテの、なんと違うことか。
 ロレンスは、名門の家系に生まれながら、のん気で軽薄な父をもち、その父が死ぬと、ひとり厳しい実社会に放り出されてしまった。従兄の援助でケンブリッジ大学を出ることができたが、叔父の嫌がらせで、聖職者としての出世の道をたびたび絶たれていた。それでも、父の物事にこだわらないのん気な性格を受け継いだのか、ロレンスは、田舎牧師でのんびりやっていければいいと思っていた。
 しかし、彼は内に潔い汚れのない魂と正義感、批判精神を秘めていた。叔父ジャックスとのかかわりから宗教界と世の中の裏側が見えてしまうと、権威や表面的な道徳というものが、ばかばかしく思えてしまった。そこから、彼の批判精神は、強烈な皮肉と風刺へと向かっていった。
 そうしてみると彼にとって、この世の中ほど面白いものはないと思えてきた。そこで彼は、すべてを皮肉って笑い飛ばしてやろうとした。ここが、ロレンスとパトリックの違うところである。
 パトリックは、現実のきびしい生活に押しつぶされていった。気に入らないことがあると、牧師館の裏の荒野にでて拳銃をぶっ放していた。
 ロレンスは、その過激で旺盛な批判精神のために、聖職者としての道をたびたび絶たれていた。そして、それに病苦が追いうちをかけた。
 それでも彼は、強靭な精神力を持ちつづけ、屈することがなかった。それを可能にしたものは、「生命の車を長く快活に回転させつづける」、「陽気であると同時に賢明でもある」、「シャンディ精神」だったにちがいない。
 ロレンスとパトリックの違いは、当然、個人の気質の違いからきたのもだろう。
 しかし、彼らを取り巻く自然も、少しは影響したのではないだろうか。荒涼としたホワース・ムーアを吹きぬける冷たい風は、パトリック・ブロンテをより頑なにしていった。これにたいして、同じヨークシャーでもコックスウォルドの豊かな森をわたる穏やかな風は、ロレンス・スターンに精気を吹きこみ、彼を幾度となく甦らせたのである。

第3章 シャンディ・ホール

 シャンディ・ホールは、コックスウォルドの村の西の外れにある。薄茶色の石と赤レンガでできた、二階建ての小さな館である。入口近くにある、石とレンガでできた大きな煙突が印象的であるが、普通の民家ともとれる館だある。「シャンディ・ホール」と書いた標示板だ出ていなければ、特別なところだとも気づかずに、通りすぎてしまいそうである。

 この館は、1450年にカトリックの司祭館(priest's house)として建てられたものである。宗教改革後からは、国教会の教区牧師館(parsonage)として使われるようになった。17、8世紀に多少の増改築がおこなわれたようであるが、建物の大部分は、当初のままであるという。
 ロレンス・スターンは、1760年3月にここを住居としてあたえられ、亡くなるまでの8年間をここで暮らしていた。
 ロレンスの死後も教区牧師館として使われていたが、1807年からは貸家となり、住人もつぎつぎと変わってきた。しかし1960年代になると、借りる者もなく、荒れ放題になっていた。

 この状態を見て嘆き、館の修復活動をはじめたのが、その後シャンディ・ホールの共同名誉館長となるケネス・モンクマン(Kenneth Monkman)とジュリア・モンクマン(Julia Monkman)の夫妻である。
 ふたりは長年にわたり、ロレンス・スターンの熱烈なファンだったという。彼らは、同好の仲間や各方面に働きかけ、1967年に「ロレンス・スターン・トラスト」を設立した。そして、ロレンス・スターン所縁の館「シャンディ・ホール」の修復をはじめたのである。
 シャンディ・ホールは、1973年から資料館として一般に公開されるようになった。内部は改装され、ロレンスが住んでいたときの状態が再現されている。低い天井は、15、6世紀のテューダー王朝時代の造りをとどめており、太い梁が剥き出しになっているのが目を引く。
 ケネス・モンクマンは、ロレンス・スターンに関するコレクターでもあり、50年以上にわたって、初版本から再販本・翻訳本・手紙・メモ・新聞記事など、スターンに関するありとあらゆる資料を世界中から集めていた。その量は、本棚の長さにして180メートルあまりになるという。

 私がシャンディ・ホールを訪れたときは、ほかに見学者は誰もいなかった。ひとりの女性が、内部を案内してくれた。日本語訳で『トリストラム・シャンディ』を読んだことがあると言うと、「たしかここにも日本語訳の本があったはずだ。シュ、シュ、シュなんとかと言ったはずだ」というので、「ナツオ シュムタ?」と聞き返した。すると、「イエス!」とうれしそうな答えが返ったきた。あとでパンフレットの写真を見てわかったことだが、その女性はモンクマン夫人だった。
 数日後、リーズ大学で指導教官だったジョン・C・スカーリ博士(Dr John Scully)にシャンディ・ホールに行ったことや『トリストラム・シャンディ』を読んだことなどを話した。すると、冶金学が専門であるが文学好きの博士は、「おまえはロレンス・スターンを知っているのか? それに、あの風変わりな本も読んでいるとは!」と、頭をふって笑っていた。
 そのあとで博士が学科の同僚たちに聞いてまわったところ、『トリストラム・シャンディ』を最後まで読みとおしたのは、28人中ふたりしかいなかったそうである。『トリストラム・シャンディ』は、そのとりとめのない内容と難解さから、イギリスでもあまり読まれなくなっているということだった。
 たしかに、ブロンテ・パーソネジは、いついっても見学者が絶えることがなかった。しかしシャンディ・ホールは、開館日が限られているためか、訪れる人も少ないようだった。開館してから12年だったが、私の入館者番号は、763番だった。


シャンディ・ホール
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