遥かなる わがヨークシャー (Faraway My Yorkshire)

ヨーク近郊 (Outskirts of York)

24 カースル・ハワードの霊廟 (The Mausoleum of Castle Howard)

 カースル・ハワードの館の東側には、まさにクロード・ロランの絵を再現したような、広大な風景式庭園が広がっている。そこには、ヴァンブルーの設計によるバロック風の「四方風の神殿」と、彼の右腕であったニコラス・ホークスムーアの設計によるギリシャ風の「霊廟」がある。二つとも、風景式庭園には欠かせない、装飾的建造物である。
 ホークスムーアによる壮大な霊廟は、4代オックスフォード伯で作家のホレイス・ウォルポール(1717-97)が、「人をして生きながら埋葬されたいと誘惑するようなところ」と絶賛した傑作である。

 水彩画に描いたのは、館の」南東にある細長い湖「サウス・レイク」にかかる橋の上から眺めた霊廟である。


四方風の神殿 (The Temple of Four Winds)


 カースル・ハワードから南西へ8kmほど行ったところに、14世紀にジョン・ネヴィルという人物によって築かれたシェリフ・ハットン城の廃墟がある。のちに、その子孫で中世最大のキングメーカーとされるウォーリック伯リチャード・ネヴィルの城となり、バーネットの戦いで伯が討たれてからは、グロスター公リチャード――のちのリチャード3世(在位1483-85)――の城の一つとなったところである。
 一般的に、リチャード3世は英国史上最大の極悪非道の王で、彼のふたりの甥、すなわちエドワード5世(在位1483)とその弟ヨーク公リチャードは、1483年の初夏(5月ごろ)にリチャードによってロンドン塔に幽閉され、その後殺害された――というのが定説になっている。
 ところがリチャード3世を擁護し、「彼にはふたりを殺害する必要がなく、すくなくとも彼の時代は、ふたりは生きていた」とする「王子生存説」もある。さらにその流れを汲むものには、「ふたりはロンドン塔からひそかに連れだされ、シェリフ・ハットン城に移されてそこで暮らしていた」という話もある。
 リチャード3世の極悪人説は、トマス・モアの『リチャード3世史』にはじまるが、この本は伝聞をもとに書かれたもので、そのまま鵜呑みにする訳にはいかない。すでにヘンリー7世(在位1485-1509)の王権を正当化する史観がつくられていたからである。
 ふたりの王子について記録しているものが、三つある。一つは、当時たまたまイングランドに滞在していたイタリア人僧ドミニク・マンチーニの記録で、そこに「王子たちは殺害されたかもしれない」という6月中旬から7月中旬にかけてと思われる巷(ちまた)のうわさが記されている。
 またそのうわさは、リンカンシャーにあったクロウランド修道院の記録『クロイランド年代記』にも記されている。
 ところが、『大ロンドン年代記』の9月29日付の記録には、「エドワード王(訳注:エドワード4世のこと)の子供たちは、塔の中庭で弓などで遊んでいるところが見られている」とある。そしてこれが、エドワード5世とヨーク公リチャードについての最期の記録で、これ以降、ほかの資料でも、ふたりについてふれた記録がまったくない――ということである。
「ふたりがロンドン塔で殺害された」というのは、あくまでもうわさで、それも故意に広められた疑いがあると指摘されている。したがって「ふたりの姿は9月まではロンドン塔で目撃されていたが、その後の記録はまったくない」と言うのが正しい。「リチャード3世がふたりを殺害した」という当時の信頼できる記録はないのである。
 リチャード3世擁護派からすれば、ふたりが生きていると困るのは、むしろヘンリー7世のほうである。なぜならば、リチャード3世がふたりを殺害したことにし、さらにエドワード4世(在位1461-70、71-83)の時代からあったもろもろの事件や出来事の責任はすべて彼にあったとし、「その極悪人を討った」というヘンリー7世の王権の正当性が崩れるからである。
 ともあれ、ここはリチャード3世について論じるところではないので、道草を食うのはこれくらいにしよう。
 リチャード3世については、ミドゥラム城(水彩画 44)のところでもふれる。

 シェリフ・ハットンの教会には、リチャード3世の一人息子で1484年4月に亡くなった皇太子エドワード(享年11歳)の、彫像付き石棺が置かれている・
 しかし残念なことに、わたしはシェリフ・ハットンを訪れる機会を逃してしまった。


In the east of Castle Howard, the landscaped parkland sprends and there are the Temple of Four Winds designed by Vanbrugh and the Mausoleum designed by Nicholas Harwksmoor, Vanbrugh's right-hand man. The Mausoleum is a monumental great building, and it seemed as if it had come out from Claude Lorraine's or Nicholas Poussin's pictures. I can understand very well the famous Horace Walpole's description of it, "a mausoleum that would tempt one to be buried alive".

In 5 miles southwest of Castle Howard, there are ruins of Sheriff Hutton Castle built by John Neville in the 14th century. Later it became the castle of the kingmaker Richard Neville, Earl of Warwick. He rebelled with George, Duke of Clarence against Edward VI in 1470. The Earl of Warwick was killed by the King at the Battle of Barnet on the 14th April 1471, and Sheriff Hutton Castle was given to Richard, Duke of Gloucester, afterwards Richard III.
I regret very much that I missed the chance to visit there.


カースル・ハワードのパークランドにつづく牛の放牧地
(A pasture of Castle Howard)
<New work for this site>


*バーネットの戦い (The Battle of Barnet)  ばら戦争の時代の1471年4月14日にロンドンの北、約16kmのところのバーネットであった、ヨーク派とランカスター派の戦い。ウォーリック伯リチャード・ネヴィルは、1461年にヘンリー6世を廃位に追い込み、ヨーク家の王エドワード4世を誕生させた。しかし王への影響力を失うと、、1470年、王の弟で娘婿でもあったクラレンス公ジョージとともにランカスター家に接近して反乱を起こし、ヘンリー6世を再即位させた。エドワード4世とグロスター公リチャードはフランスへ逃れたが、1471年3月14日、イングランドに上陸。エドワード4世は再即位を宣言し、ヘンリー6世を捕らえた。ウォーリック伯は、一度は逃亡したが、バーネットの戦いで討たれた。


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