リチャード3世の物語

第2章 王冠への道――光と影

 ヨークの太陽没す

 クラレンス公ジョージの事件後、エドワード4世の時代は、しばらくは平穏に過ぎていた。
 グロスター公リチャードにとっても、すべてが順調だった。イングランド北部の統治は、かれに完全にまかされていた。
 1480年にスコットランドがイングランド侵略の動きを見せたとき、リチャードはこれを阻止した。
 1482年にスコットランドがふたたび侵略の動きを見せたとき、リチャードはイングランド軍をひきいて逆にスコットランドに侵攻し、バーウィックを陥落させると、エディンバラまで攻め込んでスコットランド軍を粉砕した。
 このときの功績で、翌年の議会では、スコットランドから奪いかえしたイングランド境界地方の土地のすべてがリチャードにあたえられた。
 リチャードにとってこの時代は、翳りのない絶頂の時だった。かれは、国王代理全軍総司令官ばかりか、スコットランド西部国境地方長官、北部総督代理となり、実質的に国王代理として、イングランド北部の統治をすべてまかされていた。ヨークシャーの片田舎、ミドゥラムの栄光の時代だった。

 こうした1483年の春、イースターの3月26日ごろに、エドワード4世が突然、倒れた。かれは健康体でとくに持病を抱えていたわけでもなかったので、原因は卒中だろうと言われている。
 このとき、皇太子エドワードはまだ12歳だった。エドワード4世は側近たちを病床に呼ぶと、次の国王の摂政に、かれのただひとり残った弟グロスター公リチャードを指名した。そして、側近たちに「協力して遺言状を執行し、新国王を支えるように」と告げた。
 しかし、国王が倒れたという知らせが駆けめぐると同時に、宮廷では、次の王国の実権をにぎろうとする激しい権力闘争がはじまっていた。ヨーク家の上に、ふたたび暗雲が広がってきたのである。

 エドワード4世が倒れたころ、リチャードはイングランド北部の自分の領地にいて、ロンドンで起こっていることなど、まったく知るよしもなかった。
 エドワード4世は、2週間ほど危篤状態がつづいたあと、4月9日に他界した。41歳になる直前のことだった。21年間の統治だった。
 エドワード4世の葬儀は、ウェストミンスター大寺院でおこなわれた。そして、一連の宗教行事がつづいたあとの4月18日、かれはウィンザー城のセント・ジョージズ・チャペルに埋葬された。 


 王妃一派のたくらみ

 エドワード4世は、新国王の摂政に弟のグロスター公リチャードを指名していた。しかし、いまや王母となったエリザベス・ウッドヴィルとその親族は、少年王エドワード5世を、自分たちの手元におき、政治の実権をにぎろうとしていた。
 この動きは、先王が倒れたときから見られ、エリザベス一派と、エドワード4世に忠実だった家臣や顧問官とのあいだで、新国王の取り合いがはじまっていた。

 エドワード4世の妃エリザベスは、のちにリヴァース伯となったサー・リチャード・ウッドヴィルの娘で、厳密にいえば、貴族階級とはいえない家柄の出身だった。彼女は最初、ランカスター家側のサー・ジョン・グレイと結婚したが、夫に先立たれ未亡人となっていた。エドワード4世よりも5歳年上だったが、かれと出会った時はまだ27歳の女ざかりだった。彼女は、手練手管で若いエドワード4世をとりこにしたと言われている。
 ふたりが結婚をしたのは1464年のことだったというが、この結婚が、のちのちに大きな問題となるのである。そのことについては、ここでは置くとする。

 エドワード4世は、王権を手にするまでは精力的で、行動的な戦士だった。しかし、長年の戦いに明け暮れた日々のせいか、かれは性格が荒れ、王となってからは怠惰になって、国の統治に関心を示さなくなった。そのとき、かれをあやつり、王国の実権をにぎっていったのが、王妃エリザベスとその親族だった。すなわち、エリザベスの弟でリヴァーズ伯となったアンソニー・ウッドヴィルとサー・エドワード・ウッドヴィルの兄弟、それにエリザベスと先夫とのあいだに生れたふたりの息子、ドーセット候トマス・グレイとサー・リチャード・グレイである。
 かれらは、王妃の、国王への影響力を利用して、これまでも権力と富をほしいままにしてきたが、これからもそれをつづけようとしていたのである。
 エリザベス一派にしてみれば、エドワード4世時代が終わったいま、ここで不器用なほど実直なリチャードに少年王の摂政として乗り込んでこられては、王国の実権を失うことになった。ここはなんとしてでも、新国王の体制を自分たちで固め、リチャードを形だけの摂政に祭りあげることが必要だった。
 ウッドヴィル家の人間はこれまでも、国王に近づく者を排除してきた。1470年にウォーリック伯とクラレンス公を謀反へと駆り立てたのも、「ウッドヴィル家の陰謀だった」とする見方もあるくらいである。
 
 王妃エリザベスは、エドワード4世は息を引きとるとすぐに、王室の財宝を押さえた。そして息子のドーセット候に、従臣たちを召集して軍備をととのえるようにと指示した。さらに、彼女の弟サー・エドワード・ウッドヴィルには、艦船を用意させた。いざというときには、王室の財宝を国外に持ちだすつもりでいたからである。
 次は、新国王のまわりを彼女の親族で固め、戴冠式をいそいで挙げ、いち早く新体制をつくりあげることだった。
 このエリザベス一派の露骨な振る舞いに、ロンドンでかろうじて抵抗していたのは、先王にもっとも信頼されていた、侍従長で枢密顧問官のヘイスティングズ卿ウィリアム・ヘイスティングズだった。

 一方、エドワード4世が他界したころ、皇太子エドワードは、叔父のリヴァーズ伯、異父兄のサー・リチャード・グレイらとともに、イングランド西部のサロップのラドゥロウ城にいた。
 そこで連絡をうけたリヴァーズ伯らは、大軍をともなってエドワードとロンドンへ向かおうとした。エリザベス一派は、この時点ですでに新国王を掌中におさめていたが、ここでいっきに新体制をつくるつもりでいたのである。

 そのころロンドンでは、すでにあちこちで、エリザベス派と反エリザベス派とのあいだの小競り合いがはじまっていた。
 ヘイスティングズ卿はリヴァーズ伯に、「不測の事態が起こりかねないので、新国王に随行する兵の数は2千以下にするように」と要請した。
 またヘイスティングズ卿は、グロスター卿リチャードにも「すぐにロンドンへ戻るように」と伝令を飛ばした。

 そのリチャードがイングランド北部のミドゥラム城で「国王が倒れた」という知らせを受けたのは、4月のはじめころだった。そのときかれには、「国王が死んだ」と誤って伝えられたという。
 リチャードはすぐに、ヨークで北部の諸侯や諸士をあつめると、新国王への忠誠を誓わせた。さらにかれ自身も「摂政として新国王に忠誠をつくすつもりである」という強い意思をしめす書簡を枢密院へ送った。それから、新国王の戴冠式のために、北部の紳士600名とともに、ロンドンへとむかった。
 期日ははっきりしないが、リチャードはヨークシャーを発つ前に、エドワード5世の一行に日程と道筋をたずねる手紙を書き送った。途中でかれらと合流し、新国王がロンドンに入城するときには、それにふさわしい、荘厳にして華麗な隊列を組まなければならないと考えていたからである。

 そのころ、リチャードの親友だったバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、かれの領地のあったウェールズ南部にいた。かれは、国王が死んだことや前王妃一派が実権をにぎろうとして不穏な動きをしていることをすでに知らされていた。それ以上の正確な情報はつかんでいなかったが、かれは、盟友リチャードにそのことをいち早く知らせなければならないと考えていた。
 じつはバッキンガム公は、以前から前王妃エリザベスとその親族を恨んでいた。それというのも、かれはランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントの3度目の妻とのあいだに生れた子の子孫で、王室の血をひいていることを矜持としていた。ところが、かれから見れば、貴族でもない身分の卑しいエリザベスの妹と、無理やり結婚させられていたからである。

 リヴァーズ伯とサー・リチャード・グレイにともなわれたエドワード5世の一行は、ロンドンへの道を急いでいた。リチャードもロンドンへと向かっていた。両者の道は、ノーサンプトンで出合う。
 しかしリヴァーズ伯らは、リチャードからの要請があったにもかかわらず、かれを待つこともなく、先へ先へと急いでいた。かれらは、リチャードよりも早くロンドンへ入り、王母となったエリザベスらと、新体制を固めてしまおうとしていたのである。

 4月28日ないし29日、リチャードはノーサンプトンに着いた。しかしエドワード5世の一行は、リチャードとの合流を避けるかのように、すでにそこを発ち、12マイル(約19キロメートル)南のストーニー・ストラットフォードまで進んでいた。
 新国王一行は、そこで「グロスター公がノーサンプトンに着いた」という知らせをうけた。リヴァーズ伯とサー・アンソニー・グレイ、老騎士でエドワード5世の東宮侍従長だったサー・トマス・ヴォーガンらは、エドワード5世をそこに残し、リチャードにあいさつするためにノーサンプトンへと戻っていった。
 その日の夕方、リチャードとリヴァーズ伯らとの会見が、友好的な雰囲気のなかでおこなわれ、かれらは夕食をともにした。そしてリヴァーズ伯らは、その晩はそこに泊まることになった。  


 リチャードのクーデター

 翌日の早朝、事態は急変した。リヴァーズ伯ら3人が、謀反の疑いでリチャードに逮捕されたのである。そしてかれらは、囚人として、即座に北部のリチャードの領地へと送られていった。
 一方、リチャードは、ストーニー・ストラットフォードへ急ぐと、エドワード5世のそばに摂政として仕え、ほかの者がかってに 新国王に近づくことを禁じた。

 この4月28日から29日にかけてのできごとについては、二つの異なった記録がある。
 一つは1483年、当時、たまたまイングランドに滞在していたイタリア人僧侶のドミニク・マンチーニが残した記録である。そこには、次のように記されている。

「リチャードとリヴァーズ伯らの会見はなごやかに進み、その日は何事もなく過ぎた。ところが翌朝になると、リチャードはリヴァーズ伯らを逮捕した。そのあと、バッキンガム公とともに大軍をひきいて新国王のところに駆けつけると、かれを側近たちから隔離した。そして、先王が健康を害して死亡したのはリヴァーズ伯らの責任で、かれらはリチャードの暗殺もくわだてて待ち伏せをしていた、とリヴァーズ伯らを非難した。それで新国王は、いやおうなくリチャードの保護下に入らざるを得なかった」

 リチャード3世にかかわる最大の謎の一つに、かれが王位簒奪を考えたとしたら、それはいつだったかということがある。
 マンチーニの記録から読み取れることは、リチャードはこのころすでに王位簒奪をくわだてていて、その機会を狙っていた。それでリヴァーズ伯らがあいさつにきたとき、油断させておいてかれらを逮捕した。そして新国王には「リヴァーズ伯らが謀反をくわだてた」と吹き込んだ――ということになる。

 このときのようすを伝えるもう一つの記録は、『クロイランド年代記』という、リンカンシャーの修道院の記録である。
 これによると、ノーサンプトンのリチャードのところにリヴァーズ伯らがあいさつにきて、友好的な雰囲気で会見が進み、夕食をともにした――というところまでは一致している。
 しかし『クロイランド年代記』では、バッキンガム公はこの席に遅れてやってきたことになっている。そしてそのあとには、次のようにある。

「そのときは時間がもう遅かったので、皆、それぞれの宿所にさがることにした。ところが翌朝になってみると、リヴァーズ伯らが宿所を抜け出していることがわかった。リチャードとバッキンガム公は、すぐにかれらを追いかけ、ストーニー・ストラットフォードの町の入口で追いつき、かれらを逮捕した。それから新国王の側近たち全員を町から追い出すと、新国王にかってに近づく者は死罪にすると命じ、新国王を掌中におさめた。そしてこの事件は、4月30日に起きたことだった」

 この記録から想像できることは、あとからやってきたバッキンガム公が、リチャードの宿所に入り、かれに何かを話したことである。そして、ふたりが会談していることを知ったリヴァーズ伯らは、身の危険を感じたのか、夜が明ける前に逃げ出した――と推論できる。
 バッキンガム公は、このとき300人ほどの手勢を引き連れていたともいう。そしてかれは、王母エリザベスらの不穏な動きやロンドンのようすなどをリチャードに知らせたのだろう。そのこととリヴァーズ伯らが夜明け前に抜け出していたことを知ると、リチャードはかれらの陰謀を確信し、追跡してかれらを逮捕したのである。
 こうしてみると、最初に不穏な動きをしたのはリヴァーズ伯らで、リチャードは、このときはまだ王位簒奪を考えていなかった――ということになる。

 リチャードは兄エドワード4世の忠実な右腕として、ヨーク家を軍事的にも政治的にも支えてきた。そのことは、当時のさまざまな資料からも明白であるとされている。
 兄からまかされていた北部の統治では、すぐれた行政手腕を発揮し、評判もよかった。私生活でも避難されるようなことはなく、良き家庭人だった。
 そう伝えられているリチャードのイメージからは、以前から「機会があれば王冠を手に入れてやろう」と思っていたと想像するには、無理が感じられる。
 かれは、政治的な権謀術数をめぐらすよりも、むしろ単純なほど実直であり、あくまでも兄の副官であることに満足していたのではないか。リチャードは、兄から甥のエドワード5世の摂政に指名されたことを知ると、忠実にその職務に専念するつもりでいたにちがいない。それ以上のことは考えてもいなかった。そう思えてならないのである。
 ところが、兄が急死する前からヨークシャーの山のなかに伝えられてくることは、国王をないがしろにした、王妃エリザベスとその親族の横暴ぶりばかりだった。
 そんなときに、兄国王の死が伝えられた。リチャードは、摂政として幼い甥を支えることに誇りをもって意気込んだ。そして甥の一行と連絡を取りながらロンドンへ急ごうとした。
 ところが、どうもようすがおかしかった。かれが新国王の一行に合流しようとしているとき、その一行は先へ先へと進み、合流するどころか、リチャードよりも先にロンドンに入ろうとしていた。
「いったいどうなっているのだ」、リチャードはきっとそう思ったにちがいない。
 ノーサンプトンの近くまで来てようやく新国王一行に追いつけそうになったとき、やっとリヴァーズ伯らがあいさつにきた。
 かれらは、いくらなんでもこれ以上、新国王の摂政にあいさつもなく先に進むわけにはいかなくなった。とにかくあいさつだけはして摂政の顔をたてておくか、と考えたのである。
 リヴァーズ伯らがあいさつにきたとき、リチャードは何を思ったか。これまでの経過で、かれらに不可解なものを感じていたかもしれない。
 ところがリヴァーズ伯らは、リチャードが考えてもいなかったことを企てていた。新国王を自分たちの掌中におさめ、摂政を形だけのものにして王国の実権をにぎろうとしていたのである。
 リヴァーズ伯らがあいさつにきたとき、リチャードがかれらを歓迎して夕食をともにしたのは、そのときまでかれはリヴァーズ伯らのたくらみを想像もしていなかったからである。
 さらに、かれが以前から王位簒奪を考えていたとしたら、それこそ最初から、リチャード支持の北部の強力な軍隊を引き連れてやってきていただろう。そしてリヴァーズ伯らがあいさつにきたとき、会食などせず、邪魔になるかれらを、さっさと逮捕してしまえばよかった。わざわざ朝まで待つことはなかったのである。
 リチャードがそれをしなかったということは、王母エリザベスやリヴァーズ伯らの陰謀など、バッキンガム公から知らされるまで、まったく予想もしていなかったからなのである。まして王位簒奪など、まったく考えていなかったのである。

「ノーサンプトンの近くで反乱があり、新国王がグロスター公の手に落ちた」という知らせが王母エリザベスに届いたのは、その日の夜のことだった。
 グロスター公が大軍をひきいてロンドンにのり込んでくる。身の危険を感じた彼女は、すぐに次男で10歳のヨーク公リチャードと娘のエリザベス・オヴ・ヨークたちを連れて、聖域であるウェストミンスター寺院に入った。
 夜が明けると、反乱の知らせがロンドン中を駆けめぐった。そして情報が入り乱れ、大混乱となった。
「グロスター公が謀反を起こした」
「いや謀反を起こしたのは、リヴァーズ伯とサー・リチャード・グレイだ」
「王母は子供たちをつれて聖域に入ったらしい」
「それでグロスター公はどうなった? リヴァーズ伯は?」
 諸侯は敵も味方も、正確な情報をもとめて右往左往した。どちらにつくか? ここで状況判断を誤ったら身の破滅である。

 5月4日の日曜日、新国王エドワード5世は、叔父で摂政のグロスター公リチャードとバッキンガム公にともなわれてロンドンに入った。
 大勢はすでに決まっていた。ロンドンは歓迎ムードでいっぱいだった。新国王の隊列のうしろには、ウッドヴィル家の紋章のついた武器を満載した荷馬車がつづいた。ウッドヴィル一族が新国王と摂政にたいして企てた邪悪な謀反の証拠を、ロンドン市民に見せるためだった。
 リチャードは母の住むベイナーズ城に入り、エドワード5世はセント・ポールの司教公邸を仮住まいとした。
 リチャードは、ロンドンで同情と圧倒的な人気を勝ちとった。それというのも、市民はこれまでの王室のやり方、それも前王妃エリザベスとその強欲な親族であるウッドヴィル家やグレイ家のやりたい放題に愛想をつかし、うんざりしていたからである。
 そしてロンドン市民の目には、歴戦の勇士でありながら、どことなく朴訥とした感じのするリチャードは、新鮮に映った。


 国王幽閉

 王母エリザベス一派は一掃され、嵐は過ぎ去った。誰もが新国王のもとでの平和と安定を期待した。先王エドワード4世に仕えていた諸侯も、摂政リチャードを支持した。
 少年王を支える摂政の叔父。これでまたヨーク家に栄光がもどってくる。誰もがそう信じて疑わなかった。
 しかし諸侯が見据えていたものは、新国王エドワード5世ではなかった。そのうしろに立っている、摂政のリチャードだった。
 リチャードはこれまで、ヨーク家の軍事部門を一手に引き受け、兄エドワード4世を支えてきた。領地での統治能力も、なかなかなのもだという評判だった。しかし地方ならともかく、中央での政治的手腕は未知数だった。諸侯にとっては、かれが今後どうでてくるかが気がかりだった。そしてリチャードは、このまま摂政の身に甘んじるだろうか? 口には出さなくても、誰もがそう思っていた。国王と摂政との力関係が、あまりにも歴然としていたからである。
 リチャードはこれからどう動くか。誰もが静かにそれを見守っていた。

 リヴァーズ伯らの謀反が失敗して事態が収拾すると、新国王のもとでの議会が数日間にわたって開かれた。まず、新国王の居場所をどこにするかが議論された。
 国王はまだ少年ということで、セント・ジョンの養育院がいいと言う者もいれば、ウェストミンスターだと言う者もいた。そのとき、「ロンドン塔はどうだろうか?」と言いだした者がいた。バッキンガム公だった。
 ロンドン塔はノルマン時代に起源をもつ堅牢な城塞で、当時はまだ王宮の一つだった。城のもつ固くて暗いイメージが嫌われて王宮として使われなくなったのは、16世紀になってからである。その後ロンドン塔は、しだいに政治犯の監獄として使われるようになり、血なまぐさい拷問と処刑のくりかえされる牢獄とみなされるようになった。
 しかし15世紀には、まだそのようなイメージはなかった。だから、バッキンガム公が何かを意図して言いだしたわけではなかった。かれは、もっとも安全な王宮として、ロンドン塔を提案したのである。
 新国王の住居はロンドン塔と決まった。しかし結果的には、エドワード5世は二度とこの城から出ることがなかったのである。

 リヴァーズ伯らを逮捕したあと、リチャードは何を考えただろうか。王位簒奪が計画的だったとするならば、すでに次の手は考えていたはずである。
 計画的ではなかったとしたら、どうなるだろうか。
 傲慢不遜の王母とその親族を新国王から遠ざけたいま、リチャードは摂政として王国のすべての実権をにぎっていた。イングランドの安寧と繁栄は、かれの手にゆだねられていた。すべてがかれの思いのままとなった。諸侯は、それぞれの思惑があるものの、いまのところは皆、摂政リチャードに敬意を払っている。


 王冠のかがやき

 リチャードには「ばら戦争を勝ちぬき、王権をヨーク家にもたらしたの自分だ」という自負があった。いま、そのかれは甥の摂政となった。
 ところで、摂政とは何なのか。国王とは。このまま摂政でいて、いつまで安泰だろうか。
 牢に閉じ込めたとはいえ、王母エリザベス一派はまだ生きている。諸侯も、表面的にはリチャードに頭を下げるが、腹のなかでは何を考えているかわからない。
 しばらくすれば、甥の頭上には、きらびやかな王冠が燦然と、まばゆいばかりの光をはなって輝くことだろう。
 
 新国王の戴冠式は、6月22日(『クロイランド年代記』では6月24日の聖ヨハネ誕生祭)に決まり、その準備がはじまった。
 しかし、エドワード5世の頭上に王冠が輝くことはなかった。6月に入ってから、事態が急変したからである。
 ところが、この時期に何があったのかは、よくわかっていない。
 事実としてわかっていることは、6月8日以降の日付でエドワード5世が署名した認可証書のようなものがまったく残っていない、ということである。つまりこの時期に何かがあって、摂政リチャードは、エドワード5世に国王としての権限を行使させなかった、ということが考えられるのである。

 それともう一つ、この時期にあったこととして考えられることは、リチャードの独裁を恐れた反リチャード勢力の動きと、それにたいするリチャードの警戒である。
 リチャードには、これまでヨーク家を支えてきたのは自分だという自負があった。そして、少年王の摂政として、国を治めることに意気込んでいた。
 ところが枢密顧問官たちは、それをリチャードの独裁だととり、かれの摂政職を形だけのものにしようとしていた。
 リチャードは、これまでは非常事態で全権を掌握していた。しかし戴冠式が終われば、いくら摂政とはいえ、勝手なことはできなくなる。枢密顧問官もいれば議会もある。いまより立場が弱くなるのは目に見えていた。
 王母エリザベスの血縁者は、まだ生きている。その支持者も、まだ隠れているだけだった。王母は、国王の弟を聖域から出そうとしない。彼女と先夫との子ドーセット候は、王室の財宝をもってフランスのブリタニーに逃げたままだった。
 先王エドワード4世に仕えていた枢密顧問官たちも、リチャードを全面的に支持しているわけではなかった。リヴァーズ伯らの謀反も認めようとはしなかった。枢密顧問官らは、リチャードの独裁を恐れ、いつ王母エリザベスらと手を結ぶかわからなかった。
 実際この時期に、枢密顧問官らは、人を介してエリザベスの実家ウッドヴィル家の人間と接触しはじめていた、と考えられている。
 しかしリチャードは、かれらの思惑どおりに事がすすむことを、黙って見ているわけにはいかなかった。そしてかれは、まず、摂政としての立場を強化しておく必要を感じた。
 ところでマイケル・ベネットのようなリチャード3世研究者は、リチャードはこの時期に王冠を手に入れることを決意した、と分析する。

 6月10日、リチャードは戴冠式とその後の議会にそなえて、自分の本拠地である北部のヨーク市に、軍隊を派遣するように要請した。翌11日には、やはりかれが信頼していた北部の有力者ネヴィル卿ラルフ・ネヴィルにも、同様の要請をした。
 リチャードは、かれに対抗しようとする勢力に、スコットランドを相手に戦ってきた北部の大軍を見せつけることで威圧し、かれの考えるところの摂政体制を確立しようとしたのである。
 この時期になって、リチャードははじめて、軍隊の必要性を感じたのである。
 ということは、このときまで、かれは軍隊を必要としていなかった。まして王位簒奪などは、考えてもいなかった、ということになる。以前から王位を簒奪するつもりでいたならば、最初から軍隊を呼び寄せておけばよかったからである。
 
 事態は、リチャードが考えている以上に急速に進行していた。
 バッキンガム公の話では、リチャードに対抗しようとする勢力は、互いの家に集まっては密談をかさねているということだった。その者たちとは、侍従長のヘイスティングズ卿ウィリアム・ヘイスティングズ、ヨーク大司教トマス・ロザラム、イーリー司教ジョン・モートン、そしてスタンリー卿トマス・スタンリーである。
 ヘイスティングズ卿は先王エドワード4世の忠実な家臣で、勇猛な戦士でもあった。
 トマス・ロザラムは身分の低い生まれだったが、才能に恵まれた人物で、やはり先王の忠実な家臣だった。
 ジョン・モートンは、法律家から聖職者に転向した人物だった。かれは頭が切れ、機を見るに敏なところがあり、世渡りがうまかった。また、大胆で策謀にたけたところもあった。かれは最初、ヘンリー6世に仕えていたが、ランカスター家が断絶したあとはヨーク家に接近し、エドワード4世にとりたてられていた。そしてこのジョン・モートンこそ、のちに「リチャード3世極悪人説」の種をまく張本人なのであるが、これについてはあとで触れることにする。
 スタンリー卿は、イングランド北西部に一大勢力をもつスタンリー一族の長だった。

 リチャードにとって、ヘイスティングズ卿らがひそかに集まっているとは、ただごとではなかった。かれにたいする陰謀の疑いが、明白だったからである。
 6月13日の金曜日、リチャードはロンドン塔でかれらに先制攻撃をかけた。
 マンチーニの記録によれば、この事件の経過は、次のようなものである。

「この日リチャードは、会議と称してヘイスティングズ卿、ヨーク大司教、イーリー司教、それにスタンリー卿など、疑わしい枢密顧問官たちをロンドン塔に呼びだした。そしてかれらがやってきたとき、リチャードは「陰謀の疑いあり」とかれらを非難した。するとかれらは、隠し持っていた武器をとりだし、リチャードに迫ってきた。そこに、異変に気がついたバッキンガム公と武装した兵士が駆けつけてきた。ヘイスティングズ卿は斬りつけられて負傷し、ほかの者たちはその場で逮捕された」

 しかし、この事件は、ヘイスティングズ卿らを反逆罪で逮捕するために、リチャードが仕掛けた罠だった、という説もある。バッキンガム公と兵士は前もって隠れていて、ヘイスティングズ卿らが剣を抜いたところで、手筈どおりに飛びだした――というのである。
 トマス・モアの記述によると、「ヘイスティングズ卿はそのあと中庭に引きずり出され、丸太の上で即座に首をはねられた」ことになっている。
 しかしほかの資料では、ヘイスティングズ卿は1週間後に処刑されたとされている。
 トマス・モアは、リチャードの残忍性を強調するために、より劇的に記したのだろう。
 ところでヘイスティングズ卿以外の者は、逮捕こそされたが、処刑されることもなく監禁されただけだった。これが、のちにリチャードの命取りとなり、また、後世にかれが極悪人として伝えられることにつながるとは、当時、誰も想像できなかっただろう。

 ロンドン塔で事件があったという話は、たちまちロンドン中にひろがり、大騒ぎになった。
 リチャードは、ロンドン塔で陰謀が発覚し、首謀者ヘイスティングズ卿とその仲間が捕らえられたと発表した。
 多くの諸侯やロンドン市民はそれを信じたが、なかには、「陰謀というのはリチャードの口実で、かれこそ何かをたくらんでいるのではないか」といぶかる者もいた。

 リチャードは、やはり王位簒奪を考えていたのか。
 邪魔者はいなくなった。王冠はすぐそこに輝いている。たとえ簒奪者の汚名を着せられようとも、かれはそれを手に入れたいと思ったのか。
 それとも、リチャードは摂政として陰謀を阻止し、新国王の体制を維持しようとしただけだったのか。
 リチャードは王母エリザベスに、「兄弟はいっしょにいたほうがいい、戴冠式に国王の弟がいないのは不自然だ」と、エドワード5世の弟ヨーク公・リチャードをウェストミンスター寺院から出すように説得した。
 6月16日、エリザベスはついに次男ヨーク公を聖域から出すことに同意した。そしてヨーク公は、ロンドン塔の兄エドワード5世のもとに連れていかれた。

 極悪人は、ついにその正体を見せはじめたのか。
 その日のうちとも数日後ともいわれているが、リチャードは、国王の弟がロンドン塔に入るのを見届けるようにしてから、枢密院にエドワード5世の戴冠式を11月9日まで延期するように要請した。もはや、リチャードに抵抗できる者は残っていなかった。
 誰もが、リチャードの真意が見えてきた、と思っただろう。
 何よりも説得力があったのは、かれが北部から呼びよせた軍隊が、すぐそこまで迫っていることだった。その数は、リチャードの盟友バッキンガム公の軍隊と合わせると、5千とも6千とも、はたまた2万ともいわれている。
 リチャードに批判的だった諸侯のなかから逮捕者がでてくると、逃亡する者が相次ぐようになった。
 残る大物貴族でリチャードが脅威と感じるほどの兵を動員できるのは、4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとハワード卿ジョン・ハワード、それにスタンリー卿トマス・スタンリーの3人ぐらいだった。
 パーシー一族はノルマン貴族を先祖にもち、王族とも婚姻関係をつうじてきた名門貴族だった。イングランド北東部のノーサンバランドを本拠地とする一大勢力だったが、リチャードは、ノーサンバランド伯とはすでに個別に主従関係をむすぶことで同盟していた。
 ハワード一族は、ノーフォークとサフォークを中心とするイングランド東部の有力貴族だった。リチャードは、ハワード卿には、ハワード卿の母方の実家の爵位であるノーフォーク公爵位をあたえると約束し、かれを取り込んでいた。
 スタンリー一族は、イングランド北西部のランカシャーとチェシャーを拠点とする強大な勢力だった。一族はばら戦争がはじまったときから、ランカスター家とヨーク家の双方とも付かず離れずの一定の距離を保ち、勢力を維持してきた。一族の長であるスタンリー卿トマス・スタンリーは、ヘイスティングズ卿の陰謀にもからんでいた手ごわい相手だった。リチャードは、スタンリー一族の反乱を恐れ、かれを処分することもなく懐柔してきた。そして、スタンリー卿は深慮遠謀の策士だったが、その分、軽はずみな行動はしないので、リチャードは用心していればよかった。
 すべての準備がととのってきた。リチャードは、それまで身につけていた黒い喪服を脱ぎ捨てると、王者にふさわしい紫の衣を身につけるようになったという。リチャードの考えていることが、誰の目にも明らかになったのである。 

 
 王位簒奪

 リチャードの次の一手は何か、まわりの者は固唾を飲んで見守っていた。
 最初の兆しは、6月22日の日曜日、セント・ポールの広場で見られた。そこで神学者ラルフ・ショウ博士の説法がおこなわれ、かれはそのなかで、「イングランドの地に私生児が根をおろすことがあってはならない」と説教したのである。その意味するところは、「新国王エドワード5世は私生児だ」ということだった。
 その理由は、先王エドワード4世は、1464年のエリザベス・ウッドヴィルとの結婚の前に、すでにエレナー・バトラーという女性――ただし初代シュルーズべリー伯の娘エレナー・トールバットとしている資料もある――と婚約しており、エリザベスとの結婚は重婚にあたり、無効である、というものだった。
 当時は、婚約も神聖なものであって、結婚と同じ拘束力があったという。婚約と同時に生活をともにすることもあったからである。
 エドワード4世とエリザベスの結婚が重婚になるとすると、ふたりのあいだに生まれた子供たちは、当然のこと庶子となり、正統な王位継承者とはなりえないのである。
 ところでエドワード4世は、歴代のイングランド王のなかでも、12世紀のヘンリー1世、17世紀のチャールズ2世につぐ無類の女好きだった。若いころから放埓な生活をおくり、甘い言葉やあいまいな約束で多くの女性とつきあっていたという。
 ところが、エドワード4世の妃となったエリザベスは、野心的なウッドヴィル家の娘だった。彼女は、最初の夫サー・ジョン・グレイに先立たれたあと、27歳の女ざかりの色香を武器に、5歳年下のエドワード4世を逆にとりこにし、強引に結婚して正妻におさまった、と見られているのである。

 私生児と王位継承権の問題は、さらに飛び火し、エドワード4世とクラレンス公ジョージも私生児であり、リチャードこそ唯一の正統な王位継承者である、というような話まで飛びだした。エドワード4世は父のヨーク公リチャードに似ておらず、グロスター公リチャードのほうがよほど父に似ている、エドワード4世やクラレンス公ジョージは母セサリーの不倫の子であり、王位継承者にはなりえず、グロスター公リチャードこそ正統な王位継承者である――というのである。
 トマス・モアによると、これらの噂は、リチャードが説教会でやらせたことだという。
 しかし当時は、結婚は神聖なものとされていた裏では、宮廷人のあいだには、単なる愛人関係ばかりか、秘密裏の婚約や結婚があったという。実際のところ、リチャード自身にも私生児がいた。エドワード4世やクラレンス公が不倫の子であったかどうかはわからない。知るはセサリーと神のみである。

 ところで、エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルと結婚する前にすでに別の女性と婚約していた、ということは、6月8日の枢密院の閣議でリチャードに知らされた、とみられている。エドワード5世の署名が消えた日である。
 エドワード4世の重婚の問題は、翌23日の議会でも取り上げられ、6月25日に証人によって証言されることになった。
 その議会に先だって巷では、ショウ博士の説教にはじまったエドワード5世私生児説、さらにはエドワード4世とクラレンス公の私生児説まで飛びかっていた。
 議会では、ショウ博士につづいてバース・ウェルズ司教ロバート・スティリントンと神学者のジョン・ペンケス博士も、「エドワード5世は私生児である」と証言した。
 しかしトマス・モアは、「ショウ博士の説教はリチャードが王位簒奪にむけてやらせたもので、博士はそのあと自責の念から衰弱し、数日後に死んでしまった」としている。
 
 ところがエドワード4世の重婚説は、まったくの根拠のないでっち上げでもないらしい。
 この情報を最初にリチャードにもたらしたのは、バース・ウェルズ司教ロバート・スティリントンだったとされているが、「エドワード4世とエリザベスとの結婚は重婚にあたり、ふたりのあいだに生れた子供たちは庶子になる」ということは、高位聖職者のあいだでは、以前から知られていたようなのである。しかしエドワード4世が存命中や、前王妃エリザべスの影響力が強かったときには、誰も言い出せなかったのだという。
 だが、事は正統な王権にかかわることである。新国王の戴冠式の日も迫っていた。もはや隠しておくわけにはいかなかった。
 誠実で実直なリチャードがそのことを知ったとき、かれはそのまま見過ごすわけにはいかなかった。筋は通さなければならない。そこでリチャードは、事実を公表することにしたのである。
 リチャードがショウ博士らに何らかの働きかけをしたかもしれない。しかし「リチャード極悪人説」が言うように、まったく根拠のないことを買収してまで話させた、ということはないだろう。リチャード擁護派は、そのような証拠はまったくないし、証言者たちはリチャードの正論に共鳴し、ただ筋を通したにすぎなかった、と言う。

 それにしてもこの一連の流れは、まるでどこかにシナリオライターがいて、その筋書きどおりに事が運んでいるようである。
 リチャードが前王妃エリザベス一派を反逆罪で捕らえて摂政の地位をゆるぎないものにすると、新国王が私生児だと知らされた。そして、摂政の力が強大になることを恐れた枢密顧問官らの陰謀が発覚した。
 このあと、いったい何があるのか。リチャードは、まるで王位簒奪に追い込まれているかのようである。

 エドワード5世の出自についての事実が公表されたとき、ロンドン市民は衝撃をうけた。それと同時に、リチャードを警戒しはじめた。
 新国王体制になったと思ったら、宮廷での陰謀騒ぎ、新国王の戴冠式が延期されたと思ったら、今度はその新国王が私生児で国王になる資格がないという。宮廷では、いったい何が起こっているのか。
 ショウ博士の説教があった2日後の6月24日、リチャードの盟友バッキンガム公は、ウェストミンスター・ホールに諸侯と主だったロンドン市民を招き、「エドワード4世の王子たちには王位継承権はない、グロスター公リチャードこそ正統な王位継承者である」と演説した。さらにかれは、リチャードがいかに国王にふさわしい徳と資質をそなえているかを熱心に語り、リチャードを国王に擁立する演説をぶった。それに答えるように、聴衆から「国王リチャード! 国王リチャード!」との声があがった。しかしそれは、バッキンガム公が巧みにホールに配置したかれの部下たちの声だったという。

 翌6月25日、議会が開かれた。リチャードは欠席していた。議題は当然、「エドワード5世は私生児である」という説が真実であるかどうかについてだった。
 諸侯やロンドン市民には、前王妃エリザベスとその親族の横暴ぶりにたいする根深い恨みが残っていた。そして、エドワード4世とエリザベスの結婚したときの状況があいまいで疑わしいことも、前から薄々わかっていた。
 議会に選択肢はなかった。議会は、「エドワード4世の子供たちは庶子である」という証言を受け入れたのである。
 この日、ヨークシャーのポンティフラクト城では、反逆罪で捕らえられていたリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィル、サー・リチャード・グレイ、サー・トマス・ヴォーガンらの処刑が執行されていた。
 ところでリヴァーズ伯らについては、送り込まれたところがポンティフラクト城ではなく、同じヨークシャーにあったリチャードのもう一つの城、シェリフ・ハットン城だったとする説もある。
 この城はネヴィル家のものだったが、1471年のバーネットの戦いでウォーリック伯リチャード・ネヴィルが討たれてからは、リチャードのものとなっていた。
 そして、リヴァーズ伯らはそこに送り込まれたとする説では、かれらは6月16日ごろ、すなわちヘイスティングズ卿らの陰謀が発覚した数日後に処刑されたとしている。

 6月26日、議会の代表が、ロンドンのリチャードの居城ベイナーズ城をおとずれた。リチャードに「王位につくように」との議会の請願を伝えるためである。
 リチャードは、はじめはその気はないと断ったが、バッキンガム公の熱心な説得に折れる形でそれを受け入れたという。
 その日のうちに、リチャードは壮麗な行列をもってウェストミンスター・ホールへ入り、国王リチャード3世として即位したことを宣言した。戴冠式は7月6日と決まった。そしてリチャードは、ただちに「エドワード5世への忠誠は無効である」との命令をだした。
 リチャード3世の戴冠式は、予定通りにウェストミンスター寺院で盛大におこなわれた。これで、かれは神が認めるイングランド国王となったのである。 

 戴冠式が終わると、リチャードはすぐに国内各地の巡幸にでかけた。正統なイングランド国王になったことを、国民に知らしめるためである。
 巡幸はグリニッジを皮切りに、ウィンザー、レディング、オックスフォード、ウッドストック、そしてかれの友人で侍従長のラヴェル卿フランシス・ラヴェルの出身地ミンスター・ラヴェルへとまわった。
 ここでリチャードは、のちに重大な謎を解くカギとなる一通の手紙を、大法官であるリンカン司教ジョン・ラッセルに書き送った。
 8月2日、リチャードはグロスターに入った。巡幸はさらにつづき、ウォーリック、コヴェントリー、レスター、ノッティンガムへと進んだ。
 8月24日、リチャードはノッティンガム城で息子エドワードを皇太子とした。
 8月29日、リチャードはかれが本拠地とするヨークに入り、そこで盛大な歓迎を受けた。そしてそのあとはヨークから南下し、ポンティフラクト、ゲインズバラを経由してリンカンへと巡幸をつづけた。


 王子たちの悲劇

 叔父リチャードがエドワード5世とその弟ヨーク公リチャードの住居にと用意したロンドン塔は、ふたりが庶子であると宣言されたときから、そのままかれらの幽閉の牢獄となった。この時期の王子たちの生活がどうであったかは、よくわからない。
 デラローシュというフランス人の画家が1831年に描いた油絵に、『塔のなかの王子たち』というものがある。350年近く時がたってから描かれたもので歴史的な資料とはなりえないが、当時の王子たちの境遇を表現した絵として評判になり、銅版画にもなったりした絵である。
 深い緑色のカーテンのかかった、彫刻のほどこされたベッド。そこに、ふたりの王子がすわっている。かれらはともに喪服のような黒い服を着ている。
 ベッドに腰掛ける前国王となたエドワードは、父親の突然の死と国王への即位、それにつづいた騒動と廃位で疲れはてたように、焦点の定まらない目で前方を見つめている。かれの目には、すでに自分たちの運命が映っているのだろうか。

 エドワードに寄り添い、かれにもたれる弟のヨーク公リチャードは、まだ状況がよく飲み込めていないのだろうか、ただ怯えたようにして、戸口があるとおぼしきほうを見つめている。
 かれはいったい何に怯えているのか。処刑の知らせか、それとも暗殺者の来訪か。かれの手もとには、絵付き聖書のようなものが開かれている。死が避けられないことを暗示しているのである。

 イタリア人僧侶マンチーニは、王子たちのことを次のように書き残している。

「ヘイスティングズが退けられて以来、かれ(エドワード5世)に仕えていた者は、かれに近づくことが禁じられた。かれとその弟は、塔の奥まった部屋に移された。そして、窓や格子越しに王子たちが目にされることが、日に日に少なくなっていった。やがてふたりとも、人の目にふれることもなくなった。最期までエドワード5世に仕えていた侍医のジョン・アージェンティンは――若い国王は生贄のために用意された犠牲のように、毎日、罪を告白し、贖罪し、許しを乞いつづけた。なぜなら、かれは死に直面していることを疑わなかったから――と伝えている。そして、エドワード5世の姿が見られなくなったことが話されると、だれもが悲しみの涙を流したという。どのようにであったかはまったくわからないが、かれがすでに殺害されたかもしれないという疑いがあったからである」

 マンチーニは、7月の中旬にロンドンを離れている。したがってこの記録は、弟のヨーク公がロンドン塔に連れてこられた6月16日から7月中旬までのことになる。
 ということは、7月のなかごろには、もう「王子たちは殺害されたかもしれない」という噂がたっていたことになる。
 さらに王子たちの殺害の噂は、8月から9月の初めにかけて、フランスでもささやかれたという。

 王子たちのことについては、『大ロンドン年代記』という記録にも残されている。
 それの市長交代期の9月29日付の記録のなかに、「この市長年のあいだ、エドワード王の子供たちは、塔の中庭で弓などで遊んでいるところが見られている」とある。
 これが王子たちに関する最期の記録で、これ以降は、ほかの資料でも、ふたりのことはまったく触れられていないという。
『大ロンドン年代記』が伝えるところは、少なくとも「9月29日までは王子たちは生きていた」ことが公式に記録されているということである。
 しかし、年代記の記録はあくまでも表向きのものであって、実際はどうであったかはわからない。
 巷では、王子殺害の噂が絶えなかった。しかし、だれも確かめたわけではなかった。だれもふたりには近づけなくなっていた。そしていつのまにか、王子たちを見たという者もいなくなってしまった。ただ、ロンドン塔に出入りする職人たちが、「このあいだまでは窓越しに見かけた」とか、「いや最近はさっぱり見かけない]とか言っていることが伝わってくるだけだった。
 王子たちは、いったいどうしたのか。噂どおりに国王リチャードに殺されてしまったのか、それともほかの誰かに。

 真実は歴史の闇のなかにある。もし王子たちが殺されたとしても、その犯人探しは容易ではない。それほど人間の思考と行動は単純ではない。犯人探しはもう少し先にすることにする。いま確かなことは、秋には王子たちの消息がまったく絶えてしまった、ということだけである。このとき、エドワード5世は12歳、弟のヨーク公リチャードは10歳だった。


 バッキンガム公の反乱

 この年の秋、9月か10月、リチャードが即位後の国内巡幸でリンカンに滞在していたとき、かれのもっとも親密な盟友だったバッキンガム公の反乱があった。
 反乱の日付については、文献でも混乱している。たとえばP.W.ハモンドとA.F.サットンらは10月11日、M.ベネットは9月11日とし、G.W.O.ウッドウォードは10月としているだけである。いずれにしても、1483年の秋、9月か10月にバッキンガム公の反乱があったということである。
 リチャードにたいする反乱の動きは、じつはかれが王位についた直後からあった。イングランド南部の諸侯や騎士のなかには、エドワード4世の王子たちこそ正統な王位継承者であると主張し、エドワード5世の復帰を望む者が多かったからである。
 しかしこれらの主張は表向きのもので、実際は、北部から大軍を呼び寄せたリチャードへの反発と利害関係からだった。南部の領主たちは、リチャードの軍隊に領地を奪われるのではないかと恐れていたのである。
 リチャードにたいする反乱のなかでは、バッキンガム公によるものが最大だった。この反乱は、結局は失敗に終わったが、リチャードの盟友だったはずのバッキンガム公がなぜ反乱を起こしたのか、そこに至るまでの理由と経過についてはまったくわかっていない。それを説明する資料が残っていないからである。
 バッキンガム公がこれまでにリチャードのためにやってきたことは、かつてのウォーリック伯リチャード・ネヴィルがエドワード4世のためにやり、リヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルがエドワード5世のためにやろうとして失敗した、キングメーカーの役割だった。

 バッキンガム公が反乱を起こした理由については、いくつかの説がある。
 もっとも単純でわかりやすい説は、バッキンガム公はこれまで、リチャードを強力に支持して王位獲得への道筋もつけてきたが、その見返りが期待したほどではなく、かれには不満があった――というものである。
 バッキンガム公は、リチャードに尽くしてきた報酬として、領地と館をあたえられていた。しかしそれでもまだ不満があったということである。
 さらに踏み込んで想像すると、バッキンガム公はキングメーカーとしてリチャードをあやつろうとしたが、生真面目なリチャードはかれの言いなりにはならなかった、とも考えられる。
 それにしては、かれがリチャードを国王にしてから反乱に走るまでの期間が2、3カ月というのは、短すぎるように思えるのだが。
 もう一つの理由は、甥の王子ふたりを殺害するというリチャードの残虐非道な犯行を知ったバッキンガム公が、かれを国王にしたことを後悔して諸侯の反乱に加わった――という説(ウッドウォードら)である。これには、「王子たちは夏から秋口にかけて殺されていて、その犯人はリチャードだ」ということが前提になる。

 ところがこれとは逆に、バッキンガム公が王子殺しにかかわっていたのではないかという見方が、1980年代になってから議論されている。
 この議論のもとになっているものは、7月29日にリチャードが、国内巡幸の途中のミンスター・ラヴェルで、大法官のリンカン司教ジョン・ラッセル宛に書いた手紙である。
 そこには、「大胆な企てをおこなった者たちは、法にのっとって処理するように」とだけ書いてあるという。だれが何をしたのかは、文面ではわからない。それがわかるのは、、リチャードと大法官だけである。リチャードが書いた謎めいた手紙は、当時、極秘扱いにしていた事件のようなものがあり、そのことについて言及していたのだろうか。
 長年、謎だったその手紙について、500年経ってから、一つの答えがだされた。ローズマリー・ハロックスによって、手紙のなかにある「大胆な企て」とはロンドン塔での王子殺しのことである、と推論されたのである。そして、リチャードは「犯人を法にのっとて裁くように」と指示したのだという。
 日付ははっきりしないが、リチャードは7月6日の戴冠式が終わったあと巡幸に出かけ、そのあとのロンドンのことは、バッキンガム公にまかされていた。そしてそのときに、何かが起こったのである。2週間ぐらいのあいだに。
『大ロンドン年代記』には、「リチャードが出かけてから1ケ月後にリチャードとバッキンガム公が会ったとき、ふたりのあいだで激しい口論があった」と記録されているという。しかし、その口論の原因と内容については記されていない。
 いったい何があったのか。バッキンガム公はふたりの王子を殺害したのか。だとしたら何のために。論功行賞に不満があったからか。その腹いせに王子たちを殺し、その罪をリチャードに着せようとでもしたのか、それとも、ほかに理由があったのか。

 庶子とされて王位継承権を失った王子たちは、もはやリチャードに脅威をあたえる存在ではなかった。リチャードにかれらを殺す必要はなかった。ただ閉じ込めておけばよかった。
 それなのにバッキンガム公は、なぜリチャードの留守中に王子たちを殺したのか。かれに何の利益があったというのだろうか。
 バッキンガム公は王子殺しにかかわっていて、そのことでリチャードとの関係に決定的な亀裂が生じ、リチャードから離れていって反乱に走ったのか。
 王子たちの姿が見えなくなったことに、バッキンガム公が関係していたかどうかはわからない。しかしM.ベネットは次のように分析している。
「王子たちを殺したことでリチャードと仲違いしたバッキンガム公は、イングランド南部と西部の反リチャード勢力に寝返り、かれらの反乱に加わった。そして、王子殺しにかかわったことを隠すために、あえてリチャード避難の大合唱に加わったのだ」と。
 この、バッキンガム公が王子殺しにかかわっていたという議論は、第5章で詳しくふれることにする。

 ところで、この秋のバッキンガム公の反乱であるが、その中心にいたのは、かれではなく、むしろ南部の反リチャード勢力の諸侯とヘンリー・テューダーの母親マーガレット・ボーフォートだったと見られている。
 反リチャード勢力は「エドワード5世とその弟は殺害されたらしい」との噂が流れると、あっさりとエドワード5世をあきらめ、代わりの国王候補者を探した。そしてその候補者となったのが、ヘンリー・テューダーだったのである。

 12年前にランカスター家の皇太子エドワードが戦死し、そのあとにヘンリー6世がロンドン塔で殺害されると、ランカスター本家の男子直系は断絶してしまった。そして、ランカスター家の最後の望みは、かつては庶子の家系とされて王位継承権は認められていなかったが、ランカスター家の血をひく男子であるヘンリー・テューダーにかけられたのだった。
 ヨーク家の時代となったとき、かれは叔父のペンブルック伯とともにフランスで亡命生活を送っていた。
 しかし、かれの母親でランカスター家の血をひくマーガレット・ボーフォートは、イングランド国内にとどまっていた。そして、ヘイスティングズ卿の処刑、エドワード5世の廃位とつづいたことでヨーク派やリチャード支持者のなかからもかれから離反してゆく者が相次いだとき、彼女は息子を王位につけるために、反リチャード勢力のあいだを取り持ち、打倒リチャード3世を画策したのである。

 反リチャード勢力が1483年の秋に起こした反乱の作戦とは、次のようなものだった。
 まず、バッキンガム公と、エドワード5世の異父兄のドーセット候トマス・グレイがウェールズで挙兵し、リチャードの国王軍をひきつける。その間にロンドン近郊諸州の反リチャード勢力が蜂起し、ロンドン塔に攻め込んでドーセット候の母親でもある前王妃のエリザベスとその娘らを救出する。これと同時にヘンリー・テューダーがイングランドに上陸し、王権を奪取する――というものである。
 しかし、この作戦は成功しなかった。その敗因としては、いくつかの点が指摘されている。
 一つは、ウェールズ南部でのバッキンガム公の蜂起が失敗したこと。もう一つは、作戦としてはよかったが、反乱軍は寄り合い所帯で、指揮・命令系統がよく組織されていなかったこと。さらに、ロンドン近郊諸州での蜂起が期待したほどには広がらず、リチャード派のノーフォーク公ジョン・ハワードの軍によって簡単に鎮圧されてしまったことなどである。
 バッキンガム公の蜂起が失敗した原因も、いくつかある。一つは、かれの軍隊がセヴァーン川の西岸で豪雨と洪水にあい、身動きがとれなかったこと。もう一つは、かれの遠縁にあたるがリチャード派だったハンフリー・スタフォード・オヴ・グラフトンにセヴァーン川の橋を押さえられ、そこを渡れなかったこと。そしてその間に、脱落者が続出したことなどである。
 バッキンガム公は、自領での挙兵に失敗したばかりでなく、家臣の裏切りにあって捕らえられてしまうありさまだった。そして、かれは鎖につながれたソールズベリーまで連行されたあと、11月2日の万霊祭の日に、そこで処刑されたという。
 ヘンリー・テューダーはというと、船団をひきいてプリマスの沖で上陸の機会をさぐっていたが、反乱が失敗したことを知ると、イングランドの地を踏むこともなく、むなしくフランスへもどっていった
 結局この反乱は、寄り合い所帯で中心を欠いていたことと、準備不足のために失敗したと考えられている。

 リンカンから急遽、イングランド南部にむかったリチャードは、反乱を鎮圧すると、数週間のあいだに南部、南西部の反リチャード勢力を一掃していった。これらの地方で反乱に加わった諸侯や騎士、郷士の数は100人以上にのぼったというが、かれらの多くは大陸へと逃れていった。そのなかには、かつてはヨーク家に忠誠を誓った者いもいたという。リチャードは反乱を押さえたとはいうものの、南部での支持者を一挙に失っていたのである。
 リチャードは、反乱に加わった者たちの領地を没収すると、それを、北から来たリチャードの支持者たち分けあたえた。皮肉にも、南部の反リチャード勢力がもっとも警戒していたことが、現実のものとなってしまったのである。


 皇太子と王妃の死 

 1483年の秋の反乱を鎮圧したことで、リチャード3世はイングランド史上前例のないほどの強力な王となった。国内の反対勢力は一掃され、かれは全イングランドを掌握したのである。
 しかし、このときのリチャードの体制は軍事力を背景にしたもので、人心はかれから離反していた。かれに残された仕事は、正統な国王として、一日も早く議会と国民の支持をとりつけることだった。
 ところがリチャードは、これまでいつもかれのそばにいてもっとも頼りにしていた参謀のバッキンガム公を失っていた。
 バッキンガム公は邪心からではあったが、リチャードに王冠をもたらしたことは確かだった。王権の安定と維持には、ときには策略も悪も必要だった。リチャードのためにそれをなしてきたのがバッキンガム公だった。はたしてこれからは、かれに代わってそれができる者はがいるだろうか。
 ノーフォーク公ジョン・ハワードは頼りになるが、リチャードと同じ軍人肌だった。戦場にこそふさわしいが、政治向きの人間ではなかった。
 4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとは同盟関係にあったが、かれはいまひとつ動きが悪く、頼りにならなかった。
 スタンリー卿トマスは埒外だった。かれは本心を顔に出さない人間で、何を考えているかわからないからである。
 つまりこのときリチャードには、参謀となるべき腹心がいなかったのである。

 1484年、年が明けると、リチャードはかれの統治となって最初の議会をひらいた。かれにとってもっとも重要な議題は、かれの王位継承がローマ・カトリックの教会法に照らしても正当なものであることを、正式に決議することだった。
 これを受けて2月、リチャードは諸侯にあらためて息子で皇太子のエドワードへの忠誠の誓いをもとめた。
 3月1日、エドワード5世の母親エリザベスもリチャードをの王権を認め、娘たちとともに聖域であるウェストミンスター寺院からでてきた。そしてリチャードは、彼女たちを庇護することを公に誓ったのである。
 リチャードは、このあとも各地をまわっては、王権の正当性を強調していった。

 リチャードの国王としての統治期間は、2年余りである。その最初と最後は、反乱との戦いで、平穏なときはそのあいだのわずかな期間だけだった。かれが政治的能力や手腕を発揮するには、あまりにも短かった。かれの王としての能力を評価するにも短すぎた。
 それでもリチャードの政治的能力の片鱗は、かれがグロスター公だった時代にうかがえる。リチャードはこの時代に、英国行政史に大きな功績を残している。
 かれはヨークシャーのミドゥラム城を本拠地としていた時代に、地方領主の遺産相続や土地の権利をめぐる争いを調停するために、私的な評議機関を創設していた。そして、地方での領主同士の争いに、公平な判断が下されるようにしたのである。これによってリチャードは、統治をまかされた北部において、大きな信頼をえたという。
 このリチャードの評議機関は、のちにヘンリー8世(在位1509-47)が1537年に設置した北部地方院やウェールズ地方院――すなわち地方において国王の裁決と同等の効力をもつ最高の行政裁判所――のモデルとなったものである。
 エドワード4世時代の最後の2年間は、イングランド北部は完全にリチャードにまかされていた。かれは、北部においては誠実で信頼される名君だった。
 リチャードにとって、兄エドワード4世の副官だった時代が、いちばん輝いていたかもしれない。それが兄の急死によって、かれの運命は大きく変わってしまったのである。 

 1484年4月、リチャードに突然、不幸がおとずれた。かれのただひとりの嫡出の息子だった皇太子エドワード11歳が、ヨークシャーで急死したのである。その場所は、シェリフ・ハットン城だったという説と、ミドゥラム城だったという説がある。
 リチャードと王妃アンがこの知らせをきいたのは、ノティンガム城に滞在しているときだった。リチャードはその後、この城を「悲しみの城」と呼んだという。
 皇太子エドワードは、シェリフ・ハットンの教会に埋葬され、かれの彫像付き石棺は、いまでもそこに安置されている。

 リチャードの運命がここにきて、ふたたび大きく変わろうと軋みはじめていた。
 王妃アンは、皇太子の死のショックから立ち直れず、そのまま寝ついてしまった。リチャードと彼女とのあいだには子供はひとりしかおらず、アンの健康状態からは、その後も子供が望める状態ではなかった。
 アンは結核を患っていたのだろうと言われている。彼女の衰弱のようすと、「アンのベッドには近づかないように」とリチャードが忠告されていた記録があることから、そう推測されている。
 しかし、リチャードがアンに近づけなかったことが、「リチャードは王妃アンを嫌っている。そして、姪のエリザベスと結婚したがっている」という邪悪なうわさを呼ぶことになった。ここででてきたエリザベスとは、エドワード4世の長女エリザベス・オヴ・ヨークのことである。
 翌年の1485年3月16日、王妃アンは、回復することもなく他界した。
 すると、反リチャード勢力の敵意が、ふたたび頭をもたげ、かれの王権をゆさぶりはじめた。かれらは「アンはリチャードに毒殺された」とか、「リチャードは姪のエリザベスと結婚する気だ」というような噂をながし、リチャードを不道徳な王だと攻撃したのである。
 これらの噂に悩まされたリチャードは、イースターの前に、それらを公に否定しなければならなかった。

 ところで、「リチャードがエリザベスと結婚したがっている」という噂は、じつは、リチャードとの結婚を望んでいた姪のエリザベスが故意に流したものである、と考えられている。
 その根拠となっているのは、アンが他界する直前に、エリザベスがノーフォーク公ジョン・ハワードに書き送ったという手紙である。そのなかでエリザベスは、リチャードとの結婚を望んでいることを暗示していた、というのである。
 しかし、その手紙の現物は紛失していて、現存しない。そこにはいったい何が書かれていたのか。リチャードもその気だったのか。かれが不道徳な王だったか否かを解くカギとなるだけに、気になる手紙である。
 それはべつとして、リチャードにしてみれば、エリザベスは姪であるばかりか庶子だった。さらにその母親エリザベスは、貴族ではない階級の出身だった。成り上がりのその一族は、兄国王の権力を笠にして、やりたい放題だった。個人的にも国王としての立場からも、姪のエリザベスは、けっしてリチャードが引かれる相手ではなかったと考えられている。
 それにしても、リチャードが噂どおりにエリザベスの弟たちを殺害したとすると、彼女はその犯人となぜ結婚したかったのか。たとえ弟たちの仇であっても、リチャードとの結婚で王妃になりたかった、というのだろうか。野心的な母親の性格を受け継いでいたとすれば、それもあったかもしれない。
 リチャードが噂を公に否定したことで、恥をかかされたと思ったエリザベスはその後、かれへの思いを憎悪へと変えていった。そして彼女は、リチャードの宿敵ヘンリー・テューダーへと接近していったのである。そこには、ヘンリーの母親マーガレット・ボーフォートからの誘いがあったとされている。
 しかしリチャード極悪人説では、「エリザベスが最初からヘンリーと結婚しようとしていたのを、リチャードが妨害していた」と曲解するのである。


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