遥かなる わがヨークシャー (Faraway My Yorkshire)

ヨークシャー・デイルズ (The Yorkshire Dales)

44 ミドゥラム城 [ウェンズリーデイル] (Middleham Castle, Wensleydale)

 ジャーヴォ修道院からA6108号線を北西に5kmほどゆくと、左前方に、木立や家並み越しに、黒ぐろとした異様な形のシルエットが見えてくる。グロスター公時代のリチャード3世(在位1483-85)の居城の一つであった、ミドゥラム城の廃墟である。
 リチャード3世は、反対派や親族を次つぎと殺害して王位を簒奪した、英国史上最大の極悪非道の王とされている。そのイメージが先行するためか、この廃墟には、なにか不気味なものを感じてしまう。
 中央にあるキープ(天守閣)は、南北に約32m、東西に約24mあり、ノルマン式の城のキープとしては、イングランドで最大である。その壁の厚さは、3mから3・7mもある。開口部もわずかで、まさに石の塊のような城である。
 この城は、ヘンリー2世の時代の1170年ごろに、ロバート・フィッツラルフという人物によって築かれたとされている。
 ミドゥラム城は、時代はさがってばら戦争の時代には、中世最大のキングメーカーといわれるウォーリック伯リチャード・ネヴィルの城の一つであった。
 エドワード4世(在位1461-70、71-83)は、1464年にエリザベス・ウッドヴィルと結婚した。だがその前に、ウォーリック伯によってこの城に一時監禁され、伯の年長の娘イザベルと結婚するように迫られたことがあったという。そのイザベルは、のちに王の弟のクラレンス公ジョージと結婚する。
 ウォーリック伯は1470年に、兄に嫉妬していたクラレンス公と反乱を起こすが、1471年4月14日のバーネットの戦いで、エドワード4世とグロスター公リチャードによって討たれた。そしてミドゥラム城は、グロスター公に褒賞としてあたえられた。
 グロスター公リチャードは、1472年に前ウォーリック伯の末娘アンと結婚する。彼女は、ヘンリー6世の息子で皇太子だったエドワードの妃であったが、皇太子が1471年5月4日のテュークスベリーの戦いで戦死してからは未亡人となっていたのだ。
 1473年に、ミドゥラム城の幕壁の南西の角にある丸い稜堡――つまりこの水彩画で左端の部分――でグロスター公リチャードの息子エドワードが生まれたという。その言い伝えから、そこは「プリンスの塔」とよばれている。
 ミドゥラム城は、テューダー王朝以降は使われることもなく放置され、荒れるにまかされていた。ピューリタン革命の時代には、国王派の拠点となることを恐れた議会派によって、一部が爆破されてしまった。そして城を形づくっていた石は、付近の住民によって少しずつ持ち出され、彼らの家に使われていった。ミドゥラムの町にある家の半分は、廃墟から持ち出された石でできていると言われている。
 いまは危険なので、立ち入りのできるところは限られているが、かつては自由だったようである。地元には、一つの言い伝えがある。城の地下の通路には、たとえどんな明りを持っていたとしても、不思議な正体不明の手によってかき消されてしまうところがあった。そしてその近くには、財宝が隠されているのだ――という。

 ところでリチャード3世は、一般的に言われているように、ほんとうに極悪非道の王だったのか。
 わたしは、「リチャード3世極悪人説」は、トマス・モアをはじめとする、テューダー王朝をささえ、その王権を正当化した人間や御用学者らの史観によって故意に作られたとみている。そして、それをもとにしたシェイクスピアの史劇『リチャード3世』によって定着してしまったと考えている。
 また、ロンドン塔で消息をたった、エドワード4世のふたりの息子、すなわちエドワード5世とヨーク公リチャードは、かつてはリチャード3世の盟友であったが彼と仲違いをしたバッキンガム公ヘンリー・スタフォードの陰謀で、彼の命を受けたサー・ジェイムズ・ティレルに雇われたジョン・ダイトンとマイルズ・フォレストというふたりのならず者の手によって殺害されたのだろう――と思っている。
 さらに、バッキンガム公の背後にいてそれをそそのかしたのが、リッチモンド伯ヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)とイーリー司教ジョン・モートン(のちの大法官でカンタベリー大司教)らであった――という研究者の推論を支持したい。
 リチャード3世については、作家のジョセフィン・テイが1951年に謎解き小説『時の娘』を発表して以来、研究者だけでなく、一般の人たちの関心もあつめるようになった。そして、彼の実像をさぐる機運も高まった。いまでは研究も進み、彼はこれまで言われてきたほどの極悪非道の王ではなかったと分かってきた。わたしが滞在していた1985年はリチャード3世没後500年にあたり、彼を擁護する議論も活発におこなわれていた。いまでは「リチャード3世協会」もあり、世界中に熱心なファンがいる。
 しかしそれでも一般的には、リチャード3世はあいかわらず極悪非道の王のままである。テューダー王朝の誕生の裏側にはいったい何があったのだろうか。

 リチャード3世にとっては、兄エドワード4世の副官としてばら戦争を戦っていたグロスター公時代が、いちばん幸せだったのではないか。
 ミドゥラム城主となってからは、イングランドへの侵攻をもくろむスコットランドの動きを阻止し、逆に攻め込んでその野望を打ち砕いた。そして国王代理全軍総司令官となり、実質的にイングランド北部の統治をまかされていた。数々の施策をこころみ、領民からは名君とたたえられ、慕われていた。
 それがエドワード4世の急死によって、リチャードをとりまく状況は大きく変わってしまった。
 リチャードは、摂政として甥のエドワード5世をささえようとしていた。しかし彼の耳元でささやき、彼に邪心を植え付けて王位簒奪へと追い込んでいったのがバッキンガム公だった。
 歴史家トレヴェリアンは、「リチャードは、生まれつきその生極悪の人物ではない。・・・しかし、きらびやかな王冠の魅力が彼の魂を罠にかけてしまった」(大野真弓監訳『イギリス史I』)と記している。
 1485年8月22日のボズワースの戦いで、リチャード3世はぬかるみの中で馬を失い、ヘンリー・テューダー軍のウェールズ兵にかこまれて討たれた。甲冑と衣服をはがれたリチャードは、かろうじて人間の形をしていたという。
 彼の遺体は、ヘンリー・テューダーがロンドンへ凱旋する途中に立ち寄ったレスターの町で、かいば桶の中にうち捨てられ、さらしものになった。フランシスコ修道会の修道士が埋葬を申し出たが、それが許されたのは2日後のことだった。そしてリチャードは、死者にたいする最低限の儀式がおこなわれただけで、レスターのグレイ・フライヤーズ修道院に埋葬された。
 しかしこの修道院も、ヘンリー8世の修道院解散で解散させられ、破壊された。そのとき、リチャード3世の墓も破壊され、いまも失われたままとなっている。また彼の墓は、埋葬の数年後にあばかれ、遺骨が、修道院近くを流れるソアー川にボウ橋の上から投げ捨てられた――とも言われている。
 ミドゥラム城の廃墟にたたずんでいると、はじめに感じた不気味さは、しだいにリチャード3世の怒りと無念さに変わってくる。

 リチャードがミドゥラム城主であった時代は、ヨークシャーの片田舎のミドゥラムの町も栄光にかがやいていた。「北のウィンザー」とよばれ、華やいだ雰囲気につつまれていたという。
 そのミドゥラムの町も、いまはリチャード3世のファンやデイルめぐりの人たちだけが訪れる、静かなところになっている。
 このミドゥラムの町と城は、わたしが前著『ヨークシャーの丘からイングランドを眺めれば』のなかでリチャード3世の生涯をたどるきっかけとなった、思い出深いところである。
 水彩画は、南側から見たミドゥラム城を描いたものである。


 *ウェブサイト版 補記
 ところが2012年9月12日、イギリスから衝撃的なニュースがもたらされた。リチャード3世が埋葬されたグレイフライヤーズの聖堂の内陣があった場所としてもっとも可能性のあるレスターの市議会の駐車場をレスター大学の調査チームが発掘したところ、脊柱側湾のある、人間の全身の骨が発見されたのである。状況からして、その人骨はリチャード3世のものである可能性が高いとして、イギリスでは大騒ぎになった。
 そして2013年2月4日、調査チームから、遺骨から採取したDNAがリチャード3世の家族(姉)の17代目の子孫のそれと一致し、発見された人骨はリチャード3世ものに間違いないと発表された。
 遺骨には、武器によると思われる傷跡が10カ所、残されていたが、そのうちの8カ所は頭部にあり、なかでも2カ所のものがとくに重大な傷だった。傷の1カ所は、右側頭部の耳の後方、斜め上にあり、頭蓋骨の一部がそぎ落とされたように円形状に欠損しており、直径が6cm前後の穴があいていた。この傷は、ハルバードとよばれる、鋭い刃のついた、大きな鉈のような、柄の長い武器で攻撃されてできたものと推定されている。考えただけでも、ゾッとするような傷である。
 もう1カ所の傷は、左耳の後ろのやや下、頸骨に近い部分で、3cmぐらいの大きさのやはり骨が欠損しているものである。この傷は、先の尖った武器によるものと見られ、頭蓋骨の反対側には、武器の先端が貫通してできたとみられる小さな穴があいていた。この状況から、傷は深さが10cmもあり、脳を貫通していたと考えられている。そしてこの傷が致命傷となり、リチャードは即死に近い状態で絶命したと見られている。
 体には、骨にまで達せず傷跡の残らない傷もあったと思われるが、傷跡が頭蓋骨に集中していたことから、攻撃されたときリチャードは兜を失っていて、敵に頭部を集中的に狙われたと推定されている。そして傷跡の状況から、リチャードは、頭部に頭蓋骨の一部を失うような、ハルバードの強力な一撃を受け、うつ伏せに倒れたところを、後ろから短剣か槍のようなもので、首の付け根に近いところを刺されたとみられている。
 骨盤にも傷跡があり、これは、ハルバードのような武器による一撃が臀部にくわえられてできたものと推定されている。このような傷は、立って戦っているときにできるようなものではないので、リチャードは死亡後も、敵から死者の尊厳を毀損するような激しい蛮行を受けていたと見られている。
 遺骨には、右側への著しい脊柱側湾が見られたが、リチャードは、シェイクスピアが描いたような背中の盛りあがった”化物じみた醜い姿”だった、とは断定できず、左肩が右肩よりも低い姿をしていたと見られる。またシェイクスピアは、腕は”立ち枯れた若木のように萎えている”とも描いているが、それを示す骨の異常などはまったく見られなかったという。
 遺骨が発見された場所からは、棺や経帷子があったことを示す痕跡は発見されなかった。そして、遺骨は腕が前のほうで不自然な形で交差し、頭部を前に倒した形で発見された。このことから、リチャードは手首を縛られたまま、しかも掘った墓穴が小さすぎたためか、頭部を前に倒し、無理やり穴に押し込めるようにして埋められたと見られている。これらの状況から、リチャードは埋葬とはほど遠い粗雑な方法で、処刑された犯罪者のように、ただ掘った穴に埋められたようである。哀れである。
 リチャード3世の遺骨は、詳細な調査後、王室とリチャード3世協会によって、丁重な宗教的儀式をもって再埋葬されるという。ヨークシャーに所縁のあった王だけに、遺骨はヨーク大聖堂に埋葬されるべきだとの声もあがり、その署名運動も起こったという。しかし、発掘権の条項とレスター大学の意向によって、リチャード3世の遺骨はレスター大聖堂に埋葬されることになった。
 参考:BBC NEWS ウェブサイト版 2012年9月12日、2013年2月4日、5日


ミドゥラム城のキープ の一部(A part of the keep of Middleham Castle)
<New work for web site>

番外編 『リチャード3世の物語』 

Driving along the A6108, 3 miles to the northwest of Jervaulx Abbey, I could see a silhouette having a starang outline over houses and trees. It was Middleham Castle, now in ruins, having dominated the town of Middleham. This castle was one of the castles owned by Richard, Duke of Gloucester, afterwards, Richard III. He is said to have been the most villainous king in English history. I felt something terrible and some eerie atmosphere in the ruins.
The massive keep of the castle, just like a mass of rocks, measuring 105 feet from north to south and 78 feet from east to west, with thick walls of 10 to 12 feet, is one of the largest keeps in England.
This impressive castle was built by Robert Fitzralph in about 1170.
In the ages of the Wars of Roses, the castle was owned by the kingmaker Richard Neville, Earl of Warwick.
Edward IV married Elizabeth Woodville in 1464, but before that, he was once imprisoned here by the kingmaker who attempted to marry his daughter off to Edawrd.
Richard Neville rebelled with King's young brother George, Duke of Clarence, against the King in 1470. But he was defeated and killed by Edward IV at the Battle of Barnet in 1471. Middleham Castle was given to the King's youngest brother Richard, Duke of Gloucester, who was the King's right-hand man.
Richard married Anne, a younger daughter of the former Earl of Warrick in 1472. Their son Edward, afterwards the crown prince, was born in the following year in the round tower at the southwest corner of the curtain walls, so the tower is called "the Prince's Tower".
In the ages of the Tudors, Middleham Castle was left to fall into ruins.
In 1646 the castle was rendered untenable and blown up partly by the Parliamentarians, and it became a quarry, literally, for the inhabitants of the town. It is said that the half of the houses of Middleham were built by using the stones taken away from the ruins of the castle.
Local legend says that any light carried into a stone passage beneath the ruins is extinguished by the mysterious unknown hand, and treasure is buried near there.
Middleham, which was called the "Windsor of the North" in the glorious old days, is now a quiet town and the centre of the dales' hikers.
I never forget the ruins of Middleham Castle from which I started a journey to trace the life of Rityard III in my previous book titled "The View of England from Yorkshire".

Was King Richard realy a villainous king as is believed even today? I think the view was forged by the Tudors and Shakespear's play.
I followed his life from the ruins of Middleham Castle to Bosworth where he was killed by Henry Tudor, Earl of Richmond and lost the Crown. I treated it in my previous book.
I now believe firmly that Richard was not such a bad king. I support this view: Henry Stafford, Duke of Buckingham was involved in the missing of two sons of Edward IV, Edward V and Richard, Duke of York, in the Tower. Then the Duke of Buckingham ordered Sir James Tyrell to murder the two. Then, two rogues in the employ of Sir James carried it out. Further, I am sure there was a conspiracy that behind the Duke of Buckingham, the case was plotted by Henry Tudor and John Morton, Bishop of Ely and afterwards a cardinal, Henry VII's Chancellor and the Archbishop of Canterbury.


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